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東京都中央区の歴史
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所在地 中央区日本橋人形町1-18-9 (大観音寺)

 (都指定有形文化財)

 この菩薩頭は鋳鉄製で、総高170cm、面幅54cm。頭頂部のみは後に補修され鋳銅製。頭上には高さ53cmの高髻(こうけい)があり、後補の鋳銅製蓮華座に乗っています。

 この像は、もと鎌倉の新清水寺にあった観音像でしたが、鎌倉時代の火災で崩れてしまいました。江戸時代に頭部が鶴岡八幡宮前の鉄井(くろがねのい)から掘り出され、明治初年の神仏分離の令に際し鎌倉から移され、明治9年(1876年)大観音寺に安置されています。以後、本尊として今日に至りました。毎月17日に開帳され、信仰を集めています。

 中世造立になる関東特有の鉄仏のうちでも、鎌倉時代製作の優秀な作品で、昭和47年(1972年)4月、都指定有形文化財に指定されています。

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所在地 中央区日本橋室町4-2

 (中央区民文化財)

 江戸時代、ここは長崎屋という薬種屋があり、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸登城、将軍拝謁の際の定宿になりました。将軍拝謁は諸外国のうち、鎖国政策のため外国貿易を独占していたオランダが、幕府に謝意を表するために献上品を携えて行った行事でした。江戸出府は江戸初期から毎年一回行われましたが、長崎からの随行の人々は、商館長の他、通訳、学者などが賑やかに行列して江戸に来ました。しかし、経費のことなどで、江戸中期からは4年に1回となっています。

 商館長に随行したオランダ人の中には、ツンベルクやシーボルトなどの一流の医学者がいたので、蘭学に興味を持つ桂川甫周や平賀源内はじめ日本人の医者、蘭学者が訪問し、長崎以外における外国文化の交流の場として、あるいは、先進的な外国の知識を吸収していた場として有名になりました。

 鎖国時における数少ない西洋文明との交流の場として貴重であり、区民史跡に登録されています。

所在地 中央区日本橋人形町1-7-10

 谷崎潤一郎(1886~1965)は、明治19年(1886年)7月24日、この地にあった祖父経営の谷崎活版所で生まれました。

 明治25年(1892年)、阪本尋常高等小学校に入学しました。その後、父の事業の失敗により、近くを転々としました。若くして文筆にすぐれ、東京帝国大学国文科を仮定の事情で中退したのち、第二次「新思潮」の同人となり、「刺青(しせい)」、「少年」など耽美と背徳の世界を華麗に描いて、文芸界で名を成しました。

 のち、日本的な伝統美に傾倒し、「蓼(たで)喰ふ虫」、「春琴抄(しゅんきんしょう)」、「細雪(さきのゆき)」、「少将滋幹の母」などを遺しています。その間、昭和12年(1937年)、芸術院会員に推され、昭和24年(1949年)には文化勲章を受章しました。

所在地 中央区日本橋堀留町1-10-2

  椙森神社すぎのもりじんじゃ

 日本橋七福神 恵比寿神


中央区民文化財
 椙森神社の社殿と富札

 椙森神社(すぎのもりじんじゃ)の創建は、社伝によれば平安時代(794~11925)に平将門の乱(935年)を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。
 
室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために山城国(京都府)伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。
 
しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その債権の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当社の富も人々に親しまれていました。
 
明治維新後も、東京市中の古社として盛んに信仰されましたが、惜しくも関東大震災(1923年)で全焼し、現在の社殿は昭和6年(1931年)に耐震構造の鉄筋造りで再建されました。
 
境内には富塚の碑(富塚碑)が鳥居の脇に立ち、当社で行われた富興行をしのんで大正八年に建てられたもの、(昭和28年(1953)再建)で、富札も残されており、社殿と共に中央区民文化財に登録されています。

所在地 東京都中央区日本橋本町2-6

 伊勢商人、小津清左衛門長弘は、当時江戸随一の商業地であった大伝馬町(現在地)に、承応2年(1653年)創業しました。

 以来、幾多の事業の返還を経て「紙商小津」として現在に至って居ります。

<小津和紙紙博物館>

入館料 無料

資料館・ギャラリー 10:00~18:00

文化教室 10:00~20:00

 

 所在地 中央区日本橋富沢町・中央区日本橋人形町・中央区日本橋久松町・中央区日本橋浜町

 この地は江戸初期に開さくされた浜町堀で大川に接し物資の輸送路として大きな役割を果たし後に浜町川と呼ばれたところである。

 明治19年(1886年)12月3日払暁馬喰町にピストル強盗事件が発生し久松警察署小川佗吉郎巡査は現場に急ぐ途中橘町付近で不審なあんま姿の男を発見格闘となり重傷を負いながら浜町河岸まで追跡しその男を捕らえた。

 この男は清水定吉といい当時10年余にわたりピストル、日本刀を持って東京府内を荒し廻りその間の被害は80余件にのぼり5人を殺害するなど稀代の兇賊であった。

 小川巡査はこの功により2階級特進し警部補に任命されたり。当時の傷がもとで明治21年(1888年)4月26日24歳でこの世を去った。

東京府民は小川警部補の尊い死を惜しみこの地の橋を小川橋と名付け不滅の功績を讃えた世は移り浜町川も埋め立てられゆかりの橋もその姿を消したが、その跡地に由来の碑を建立し小川警部補の功績を顕彰する。 

所在地 東京都中央区日本橋室町1-4-1

 (東京都選定歴史的建造物)

日本のデパートメントストア(デパート)
                                             発祥の地


お子様ランチ発祥の地

日本のエスカレーター発祥の地



 三越は、延宝元年(1673)に三井高利が「越後屋」として創業した。「三井呉服店」を経て、「三越呉服店」となり、大正3年(1914年)には、鉄筋コンクリート造による大規模な百貨店の新築を行った。
 
当時の建物はネオ・ルネッサンス・スタイルの壮麗な建築で、5階建一部6階、中央部に5階まで吹き抜けのバロック的大空間をもっていた。その後、震災で損傷し、昭和2年に復興するが、更に昭和10年(1935年)全館の増改築が完成し、現在みられるような規模となった。
 
建物中央部の吹き抜けホールは、アーチ状の天窓からの光りがホール全体を照らし、5階までの各階にはバルコニーがめぐり、アール・デコ風のデザインが目につく。そこに展開する装飾性豊かな空間は見事である。
 高利は伊勢松坂(三重県松坂市)の商家の4男として元和8年(1622年)に生まれました。
 
立ち寄りやすい「店先売り」という店頭での販売、その場で払うことで安く売る「現金掛け値なし」という支払方法の採用など、当時革新的なサービスを次々に打ち出し、たちまち江戸を代表する大店となりました。

<設計者> 横河民輔 中村伝治

<建築年> 大正3年(1914年)

 三越入口には『ライオン像』があります。

所在地 中央区日本橋人形町3-8付近

 江戸時代初期、新和泉町(人形町3丁目)のこの辺りは、幕府の医師であった岡本玄冶の排領屋敷があったことから「玄冶店(げんやだな)」と呼ばれていました。
 岡本玄冶(1587~1645)は京都に生まれ、医術を曲直瀬道三まなせどうさん(玄朔)に学びました。元和9年(1623年)、京都に上洛中の徳川家光が江戸へ帰る際に侍医として招かれ、幕府の医師となりました。後に法眼から法印に叙せられて啓迪院と号しました。
 3代将軍家光は岡本玄冶を重用し、数多くの功があったことが記録に残されています。「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしょかふ)」には、寛永10年(1623年)、家光が大病を病んだ時、諸医術をつくしても効験がなかった病を玄冶が薬を奉り平癒したとあり、この功により白銀200枚を賜ったことが記されています。
 岡本玄冶の拝領屋敷は「寛保沽券図(かんぽうこけんず)」によると、「表京間60間 裏行京間25間 坪数1,500坪」とあります。当地にはその後、9代にわたって子孫が住み、明治維新で地所を奉還したと伝えられています。岡本玄冶は正保2年(1645年)に没し、広尾の祥雲寺(渋谷区)に葬られました。
 玄冶店の名は、歌舞伎狂言作者の三代瀬川如皐(じょこう)が脚色し、嘉永6年(1853年)に中村座で初演された「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」の「源氏店(玄冶店)の場」の一幕で、お富と切られ与三郎の情話の舞台となり、その名が広く世に知られるようになりました。

所在地 東京都中央区銀座2-7先

 慶長17年(1612年)、徳川幕府はこの地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置する。当時の町名を新両替町と称したが通称、銀座町と呼称されていた。

 明治2年(1869年)、遂に銀座を町名とする事に公示される。

 寛政12年(1800年)、江戸幕府は江戸に貨幣の鋳造を集中し、直営事業としました。「銀座」は江戸幕府の金融政策の一端を担う重要な役所だったのです。

 当時、銀は国内経済を支えるだけでなく、海外への重要な輸出品でした。生糸や絹織物などを輸入するために銀が支払われ、海を越えた日本の銀は世界の市場に流通していきました。

所在地 中央区日本橋兜町4-3

 この地は明治6年6月11日(1873年)、わが国最初の銀行である第一国立銀行が創立されたところである。

所在地 中央区日本橋室町4-1-21

 (東京都選定歴史的建造物)

設計者 村野藤吾

建築年 昭和6年(1931年)

 呉服問屋・森五商店の社屋としてつくられた。文化勲章を受章した建築家・村野藤吾(1891~1984)が渡辺節建築事務所から独立後はじめて手がけた作品。大阪御堂筋の大阪ガスビルと並ぶ昭和初期の日本を代表するオフィスビル建築である。装飾に頼るのではなく、立面全体と窓の比例、外壁の平面性を強調する黒褐色のタイル、精妙なディテールを表現のテーマとしており、当時の最新の美意識と村野の優れた芸術的センスが統合されている。細やかな心づかいはインテリアにも見られ、ドイツ製ガラスモザイクを用いた天井や大理石張りの壁で構成された1階玄関ホールは特に注目される。8階は昭和30年(1955年)の増築である。

所在地 中央区京橋3-4先

 銀座と京橋の間の首都高速の下に、京橋大根河岸青物市場跡の石碑があります。

 寛文4年(1664年)に水運のよい京橋川に野菜の売り場が設けられ、昭和10年(1935年)に築地に市場が移されるまで、庶民の台所を支える青物市場として栄えました。

 冬になると10本まとめにしたたくさんの大根が舟から下ろされ、まるで大根の花が咲いたようだったため、大根河岸といわれたといいます。

所在地 東京都中央区銀座7-13-10先

 (汐留遺跡)

 四角錘の形をした間知石(けんちいし)と、板状に加工された切り石は、大名屋敷の石組溝(いしぐみみぞ)(排水施設)に使われていたものです。

 

 

所在地 中央区日本橋兜町1-8 (兜神社)

 現在兜神社前左にある兜岩の由来には、下記の諸説がある。

<一> 

 源義家奥州より凱旋の際、東夷鎮定のため、兜を楓川のほとりに埋め一魂の塚となし、これを兜塚といった。

<二>

 前九年の役(ぜんくねんのえき)(奥州十二年合戦)(1051~1062)の頃、源義家が東征のみぎり岩に兜を縣けて戦勝を祈願したことからこの岩を兜岩と呼ぶようになった。

<三>

 俵藤太秀郷(=藤原秀郷)、平親王(平将門の尊称、天慶3年(940年)2月14日戦死)の首を打って兜に添へて是まで持来れるが、兜をば茲に埋めて塚となし兜山と云う。

所在地 中央区日本橋兜町・中央区日本橋茅場町・中央区日本橋小網町

 鎧の渡しは、江戸時代の元禄年間(1688~1704)以来の切絵図や地誌類にも記される日本橋川の渡し場で、明治5年(1872年)に鎧橋が架けられるまで存続しました。
 伝説によると、平安の昔、源頼義が奥州平定の途中、ここで暴風逆浪にあい、鎧を海中に投げ入れ竜神に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができたので、以来ここを鎧が淵と呼んだといわれています。また、平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられています。
 「江戸名所図会」や安藤広重の「江戸名所百景」には、渡しの図が描かれ、このほか、この渡しを詠んだ俳句や狂歌等も知られています。

 縁日に 買うてぞ帰る おもだかも
  
逆さにうつる 鎧のわたし
               
和朝亭国盛

所在地 中央区日本橋1-20先 日本橋兜町3先

 (中央区民文化財)

 開運橋は、楓(もみじ)川が日本橋川に合流する入り口に架けてあった橋です。江戸時代初期には高橋と呼ばれ、橋の東詰に御船手頭向井将監(しょうげん)忠勝の屋敷が置かれていたので、将監橋とか海賊衆ともいっていたためです。

 橋は、明治維新になり、海運橋と改称され、明治8年(1875年)に、長さ八間(約15m)、幅六間(約11m)のアーチ型の石橋に架け替えられました。文明開化期の海運橋周辺は、東京の金融の中心として繁栄し、橋詰にあった洋風建築の第一国立銀行とともに、東京の新名所となりました。

 石橋は、関東大震災で破損し、昭和2年(1927年)鉄橋に架け替えられました。このとき、二基の石橋の親柱が記念として残されました。鉄橋は、楓川の埋立てによって、昭和37年(1962年)撤去されましたが、この親柱は、近代橋梁の遺構として、中央区民文化財に登録されています。

所在地 中央区日本橋浜町1-4付近

 古歌をとおして、わが国の古典学の基礎を築いた賀茂真淵(かものまぶち)(1697~1769)は、現在の浜松市の出身で、はじめ京に出て荷田春満(かだのあずままろ)に入門し、元文2年(1737)江戸に下り、田安宗武(たやすむねたけ)(徳川三卿の一人)に迎えられ、和学を講じた。

 隠居後、浜町山伏井戸の東方に住み、県居の翁(あがたいのおきな)と称し、「万葉考」「歌意考」「国意考」「祝詞考」等を著した。また歌会なども多くを開き、その作品は今に伝えられている。

 

 あがた居の茅生(ちぶ)の露原かきわけて

                   月見に来つる都人かも

 

 その旧跡は、この地点の北東約100mのあたりである。

所在地 中央区日本橋1丁目4番と5番の間の小道 (日本橋コレド裏)

 江戸っ子夏目漱石は、ロンドンを舞台にした作品にも、日本橋を言挙したほどだ。

 青春小説 「三四郎」、

倫理探求の名作「こころ」には、ここの路地の寄席や料理屋が描かれている。

所在地 中央区八重洲1-11先

 (中央区民文化財)

 皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」にすでに木橋として見えています。当時は西河岸町と北鞘町とを結ぶ橋で、橋名の由来としては、北橋詰近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたと「江戸砂子」に見え、日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要でした。

 木橋としては最後となった明治6年(1873年)の一石橋は長さ十四間、幅三間の橋でした。大正11年(1922年)に東京市道路局によって鉄骨コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱四基をすえた白亜の橋となったのです。関東大震災にも落橋せず、その後も交通上の重要な橋として使われてきました。平成9年(1997年)には大正11年(1922年)の橋本体は全て撤去されましたが。威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿をしのばせています。

 平成14年(2002年)に中央区民文化財に登録されました。

 

所在地 中央区八重洲・中央区日本橋本石町

 一石橋は寛永年間(1624~1647)またはそれ以前から存在した橋である。下の写真に見られる一石橋の姿は、大正11年(1922年)に架け替えられた当時の姿で、アーチ部分の石積み、重厚な意志の高欄や親柱、証明などの細部に至るまでデザインの施された橋であり、当時の時代を感じさせる西洋的でモダンな印象をかもし出している。

 一石橋の上流半分は、昭和48年(1973年)にスチール製の桁橋に架け替えられ、平成11年(1999年)には下流側半分についても架け替え麹が行われて今日に至っている。大正時代当時の一石橋の姿を残しているのは上流側の大きい親柱と小さい親柱(当時の袖柱)のみとなり、残りの施設については、平成11年(1999年)の下流側架け替え工事に伴い、当時の姿と印象を残し継承する意味で新たに作り替えられている。

 

 

所在地 中央区日本橋久松町4-4 (ピジョン株式会社)

 幸運を招く猪(ポルチェリーノ)

 この猪像はイタリアの古都フィレンツェの通称猪市場の入口に1639年以来飾られて鼻の頭をなでると幸運を招くといわれ世界中の多くの人々に愛され親しまれてきたものと同じです。

 制作は1638年イタリアの名高い彫刻家ピエトロ・タッカによるものです。

 尚水中に投入れられたコインは年一度集計して福利厚生施設への関係へ寄贈することにいたします。

    1998年7月 ピジョン株式会社 社長 仲田洋一

所在地 中央区日本橋室町3-2-15

 十軒店は雛市(ひないち)の立つ場所として知られていました。「寛永江戸図」に「十軒たな」と記された、石町(こくちょう)2・3丁目と本町2・3丁目に挟まれた小さな町で、日本橋通りの両側に面していました。江戸時代の初め、桃の節句・端午の節句に人形を売る仮の店が十軒あったことから、この名があるともいわれています。

 江戸時代中期以降、3月と5月の節句や12月歳暮市には内裏雛(だいりびな)・禿人形(かむろ)・飾道具(かざりどうぐ)・甲人形(かぶとにんぎょう)・鯉のぼり・破魔弓(はまゆみ)・手毬・羽子板など、季節に応じた人形や玩具を売る店が軒を並べていました。

 「江戸名所図絵」には「十軒店雛市」と題し。店先に小屋掛まで設けて繁昌(はんじょう)している挿絵が描かれています。明治時代以降もこの地は「本石町十軒店」と称せられていましたが、明治14年(1911年)に十軒店町となり、昭和7年(1932年)、旧日本橋区室町3丁目に編入されました。

所在地 中央区京橋3-5先

 京橋は古来より其の名著しる。創架乃年は慶長年間(1596~1614)なるの如し。明暦以降しばしば架換へらし大正11年(1922年)末現橋に改築せしる。この橋柱は明治8年(1875年)石造り架換へられたる時乃擬寶珠欄干の親柱をして橋名の書は明治の詩人 佐々木支陰乃揮毛す係るものなり。昭和13年(1938年)5月



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