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東京都中央区の歴史
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所在地 中央区新富1-1・4地域

 現在、ここから日本橋方面にのびている高速道路はかつての楓川で、川はこの先で京橋川と三十間堀に合流していました。そこは、それぞれの川筋に弾正橋牛の草橋(白魚橋)真福寺橋の三つの橋が架かっていたことから「三ツ橋」と呼ばれていました。蜊河岸は、その三ツ橋のひとつ、三十間堀に架かる真福寺橋の東岸、築地方面の河岸の呼び名です。江戸時代初期、この蜊河岸には江戸三大道場のひとつ、鏡新明智流の剣客桃井(もものい)春蔵の「士学館」がありました。嘉永6年(1853年)発行の平野屋版切絵図には、蜊河岸の築地側南端に、その名を確認することができます。 

 

 

 

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所在 東京都中央区新富2-6-1 

 新富座は万治3年(1660年)木挽町5丁目(現在の銀座6丁目、昭和通り西側)に創建された『森田座』を引き継ぐ歌舞伎の劇場でした。

 森田座は代々森田勘弥(かんや)が座元で、天保14年(1843年)浅草猿若町(現在の台東区浅草)に移り、安政5年(1858年)に『守田座』と改めました。明治5年(1872年)には、守田座12代勘弥が新富町に移転進出し、明治8年(1875年)に『新富座』と改称しました。

 新富座は市川団十郎・尾上菊五郎・市川左団次などの名優を集めて積極的な興行を行ないました。劇場は近代的な様式を取り入れた大規模な建物で『東京第一の劇場』と称され、周辺には歌舞伎関係者が多く居住し、一帯は芝居町となっていました。

 明治22年(1889年)に歌舞伎座が開場するまで芝居興行の中心的存在でしたが、大正12年(1923年)の関東大震災で焼失しました。

 明治期の錦絵には海鼠壁(なまこかべ)の上に絵看板を並べた大劇場の様子が見え、往時の繁栄ぶりがうかがえます。



所在地 中央区新富2-4

1985年(明治28年)9月英国より来日したライト大佐一行はこの地に日本最初の本堂を設け救世主軍活動を開始した。 1995年9月日本における救世軍創設百年を記念して設置する。      救世軍本営




『先ず人を造れ』山室軍平


所在地 中央区新富1-7-1

    新富 消防地蔵尊 縁起
 昭和16年(1941)2月13日の深夜、この地に在った家具製作所から出火しました。
 折からの強風に煽られ、火は7棟・170余坪(567㎡)を焼尽くしました。猛火の中を、逃げ遅れた女子従業員を救出しに入った少年を含め、3名の若い命が失われました。
 翌17年(1942)4月、跡地に京橋消防署新富町出張所が設立され、地域防災の任にあたりました。
 然しながら、出勤した消防隊員に負傷者が続発したり、又「非番なのに望楼へこつこつと登る足音がする」とか「夜中に少女がさめざめと泣く声が聞こえる」などの噂が広まりました。
 昭和28年(1953)、消防署と協議し、町会役員・町内有志の発意と芳志により、此処に殉難者の鎮魂と地域の安全を祈願する(新富消防地蔵尊)が建立されました。
 以後、さしたる災害もなく、平成に入り、競売消防署の新富町出張所はその任を終えましたが消防地蔵尊はそのまま存続し、昔を知るお年寄りの他、各種の願い事を祈願する人々の参詣も多く、今日に至っております。
 平成18年(2006)11月吉日  東京都中央区新富町


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