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東京都中央区の歴史
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 所在地 東京都中央区明石町8

 アメリカ公使館は安政6年(1859年)初代アメリカ行使ハリスにより港区元麻布1-6、善福寺に開設されたが、明治8(1875年)12月築地の外国人居留地内のこの地に新築され、はじめて形容を整えた。のち明治23年(1890年)3月赤坂の現在地に移転され、現在の大使館になっている。

 最後の移転により、この地には8個の小松石の石標が残された。石標には、白頭鷲、星条旗、星の3種類の彫刻が施されており、白頭鷲はアメリカの国鳥であり、星条旗に彫られた13の星は同国初期の13州を示す。

 8個の石標のうち3項は昭和59年(1984年)10月に日米友好のシンボルとして、赤坂のアメリカ大使館に寄贈され、現在同大使用館の前庭に配置されている。残る5個の石標は、築地の居留地時代を伝えられるものとして中央区民文化財団に登録されており、うち2個をここに、3個を旧病院前に設置する。
  
     中央区 

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所在地 中央区明石町5-26

 (中央区民文化財)

 カトリック築地教会は、明治4年(1872年)にパリ外国宣教会のマラン神父が、鉄砲洲の稲荷橋付近の商家を借りて開いた「稲荷橋教会」がその前身とされます。明治7年(1874年)、神父は宣教会の名義で築地居留地35・36番を借り受け、ここに司祭館と聖堂を建てました。明治11年(1878年)には、ここにゴシック様式の聖堂が献堂されますが、この聖堂は関東大震災で焼失し、現在の聖堂が昭和2年(1927年)に再建されました。聖堂は石造りに見えますが、実は木造建築で、壁面をモルタル塗りとしています。

 また、旧聖堂で使用された鐘は、明治9年(1876年)にフランスのレンヌで製作され、当時の司祭であるルマレシャル神父から「江戸のジャンヌ・ルイーズ」と名付けられたもので、現在も教会に保管されています。

 教会聖堂と鐘は、かつて外国人居留地のあった明石町に残された貴重な文化財として、中央区民文化財に登録されています。

  中央区

所在地 中央区明石町10 (聖路加国際病院)

 明治16年(1883年)ごろ、この付近(当時の京橋区入船町8丁目1)に「耕牧舎」という乳牛の牧場がありました。作家芥川龍之介(1892~1927)は、明治25年(1892年)3月1日、その経営者新原敬三の長男として、ここに生まれました。
 
龍之介は誕生後7ヶ月にして、家庭の事情から母の長兄芥川道章に引き取られて、本所区小泉町(現、墨田区両国3丁目)に移り、12歳の時、芥川家の養子になりました。
 
東京帝国大学在学中から文筆に親しみ、夏目漱石の門に入り、「地獄変」「羅生門」「河童」「或阿呆の一生」など、多くの名作を遺しましたが、昭和2年(1927年)7月24日、35歳で自害しています。

所在地 中央区明石町10先

 慶応義塾の起源は1858年福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾に由来する。その場所はこれより北東聖路加国際病院の構内に当る。この地はまた1771年中津藩の医師前野良沢などがオランダ解剖書を初めて読んだ由緒あるところで、日本近代文化発祥の地として記念すべき場所である。

所在地 東京都中央区明石町10

 ジュリア・カロゾルスが1870年、築地居留地6番にA六番女学校を創設、米国長老会に所属した。

所在地 東京都中央区明石町10・11地域

 常陸笠間(茨城県笠間市)藩主浅野長直(1610~1672)は、正保2年(1645年)、播磨赤穂(兵庫県赤穂市)に領地替えとなり、53,500石を領して内匠頭と称しました。子の長友の代に分与して5万石となります。
 ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯8,900余坪の地は、赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、西南二面は築地川に面していました。
 
忠臣蔵で名高い浅野内匠頭長矩(1665~1701)は、長友の子で、元禄14年(1701年)、勅使の接待役の推されましたが、3月14日、その指南役であった吉良義央江戸城中で刃傷に及び、即日、切腹を命ぜられました。この江戸屋敷及び領地などは取り上げられ、赤穂藩主浅野家は断絶しました。

所在地 東京都中央区明石町9

 江戸幕府は安政5年(1858年)に欧米五カ国と修好通商条約を結び、横浜・神戸など五港の開港と江戸・大阪の開市を取り決めました。居留地は開港・開市の土地に設けられた条約締結国の外国人の居住や通商のための専用特別区でした。

 江戸(東京)の開市は明治元年(1868年)、明治政府になってからで、この条約に基づいて現在の明石町地域を築地居留地と定めました。

 築地居留地は商館の多かった横浜や神戸などは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し教会や学校などを数多く開いて教育を行っていました。このため、築地居留地は日本の近代化に大きな影響を与えた一地域を形成していました。

 明治に描かれた築地居留地の銅版画からは、洋風建築が建ち並び異国情緒あふれる街の様子をうかがうことができます。

  中央区教育委員会

所在地 東京都中央区湊3-18

 (中央区民文化財)

 佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲でした。江戸幕府初代将軍徳川家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区)の漁民を招いて住まわせたところと伝承されています。この島と対岸の船松町(佃大橋西詰付近)との間に生保2年(1645年)に通ったのが佃の渡しです。

 明治9年(1876年)には、渡し銭一人5厘の掲示札の下付を願い出て許可され、大正15年(1926年)東京市の運営に移り、翌昭和2年(1927年)3月に無償の曳船渡船となりました。「佃島渡船」の石碑は、手こぎ渡船を廃止した記念として、この時期に建てられたものです。

 昭和30年(1955年)7月には1日70往復にもなりましたが、昭和39年(1964年)8月の佃大橋の完成によって300年の歴史を持つ佃島渡船は廃止されました。

 渡船の歴史を記念する史跡として、中央区民文化財に登録されています。

所在地 東京都中央区明石町7

 明治学院は明治10年(1877年)、ここ旧築地17番地に解説された東京一致神学校を基とする。

 

 

所在地 東京都中央区明石町10先

 蘭学者 前野良沢(1723~1803)、杉田玄白(1733~1817)を中心に、桂川甫周らが協力してオランダ語の医書『解体新書』5巻を完成させた。

 

 

 

所在地 中央区明石町1-15

 これは、ガス灯を点ずるための街灯柱です。高さは3.4mで柱は鋳鉄製、コリント風の様式をとり、柱頭・柱身・基部の部分から成っています。柱頭のランプ部分は後に付けられたものです。柱頭の下には左右に長さ20cmの腕金が出て、柱身の下部には繰型が見られます。この街灯柱は明石町の築地居留地で使用されたと伝えられています。

 当時は、夕方になると点火夫が長い棒の先に鍵と点火具の付いたものを持って、ランプの底を開いて点灯し、夜明けには、ガスのバルブを閉じて消灯して歩いていました。

 日本の都市ガス事業の始まりは、明治5年(1872年)に横浜の外国人居留地でしたが、東京は翌明治7年(1874年)銀座煉瓦街の完成を機に、西村勝三・フランス人プレグランらが、芝浜崎町にガス灯85基を建て、明治7年(1874年)12月に点灯したのが最初といわれています。ガス灯の明るさは当時の人々を驚かせました。

所在地 中央区明石町8先

 ここは明治初年にあった築地居留地の18号地で英国人医師ヘンリー・フォールズ(1843~1930)が明治7年(1874年)から明治19年(1886年)に至る滞日中に居住したところである。

 フォールズはスコットランド一致長老教会の宣教師として来日しキリスト教布教のかたわら築地病院を開いて診療に従事し、また日本人の有志とはかって盲人の保護教育にも尽力した。

 彼はわが国で行われていた指印の習慣に興味をもちたまたま発掘された土器に印象されていた古代人の指紋を発見し、これにヒントを得てここではじめて科学的な指紋の研究を行なった。

 明治13年(1880年)10月英国の雑誌『ネイチャー』に日本から投稿した彼の論文は科学的指紋法に関する世界最初の論文といわれ、その中で早くも犯罪者の個人識別の経験を発表し、また指紋の遺伝関係にも言及している。

 明治44年(1911年)4月1日、わが国の警察においてはじめて指紋法が採用されてから満50年の今日、ここゆかりの地に記念碑を建立し、その功績をたたえるものである。

所在地 東京都中央区明石町13

 明治2年(1869年)9月19日(太陽暦10月23日)、横浜裁判所と東京築地運上所内に設けられた「傳信機役所」を結ぶ約32kmの電信線架設工事が開始され、同年12月25日に業務を開始した。これが、我が国における公衆電信通信の最初である。

 この記念碑は、先駆者はの業績を後世に伝えるため、昭和15年(1940年)に建立されたもので、昭和53年(1978年)、南南東約40mの地点から当地へ移設されたものである。

 所在地 東京都中央区明石町10

 (東京都選定歴史的建造物)

 築地明石町は外国人居留地で、外国との東京における最初の窓口であった。このような歴史的由緒のある場所にふさわしい建物がこの病院である。



 明治35年(1902年)、築地病院を聖路加病院と改称し、トイスラー博士が院長となった。大正12年(1923年)の関東大震災を経て、昭和3年(1928年)新病院が着工され、同8年(1933年)に完成している。
 
設計は最初A.レーモンドが当たり、病棟の中心部に高い尖塔をあげた案をB。フォイエルシュタインと共に計画した。この案は白亜の壮麗な近代主義的な計画案であったが、途中設計者がJ.V.W.バーガミニーとなり、現在見られるような意匠に変更された。
 
中央の十字架を頂く高塔には、色モザイク・タイルが用いられ、都市景観のうえでも重要なランド・マークになっている。
 
なお、この病院中心部の背面に突き出た礼拝堂は、近代ゴシックともいうべき荘重な空間をもち、美しいステンドグラスと共に病院付属のチャペルとして、ふさわしい雰囲気を漂わせている。
 
平成9年(1997年)、中央部の一部(礼拝堂)を残し、これと調和した病院施設が新たに竣工した。



 地内には『聖路加国際病院トイスラー記念館』、『芥川龍之介生誕の地』、『浅野内匠頭邸跡』、『立教女学院 築地居留地 校舎跡記念碑』があり、付近には『慶応義塾大学発祥の地』があります。

所在地 中央区明石町10 (聖路加国際病院)

 昭和8年(1933年)、トイスラー記念館は隅田川畔の明石町19番地に聖路加国際病院の宣教師館として建設されました。
 
設計者は米国人建築家のJ・V・W・バーガミニィで、施工は清水組(現在の清水建設株式会社)が行いました。建物の躯体は、昭和初期の住宅建築には珍しい鉄筋コンクリート造一部木造の二階建てで、ヨーロッパの山荘を思わせる重厚な風格のある建物でした。
 
平成元年に解体工事が行われ、平成10年(1998年)2月に現在地へと移築復元されました。復元にあたり、創設当時の施工技術や構造上の特徴を精密に記録し、再利用可能な部材をできる限り用いています。
 
外観は、外部に柱や梁を表現したハーフティンバー風の意匠です。室内はチューダー・ゴシック風のデザインで、玄関ホールやリビングなどに重厚な木の内装がみられます。
 
この建物は、聖路加国際病院の歴史を物語るとともに、築地居留地時代から引き継がれてきた明石町の歴史の一端を伝える貴重な文化財です。



所在地 中央区明石町6-26

 青山学院は、米国メソジスト監督協会の宣教師により創立された3つの学校を源流としています。
 「海岸女学校」は、ドーラ・E・スクーンメーカーによって創立された源流の1つ「女子小学校」(1874年麻布に開校)が「救世学校」を経てこの地で大きく発展したもので、明治の女子教育に多大な足跡を残すとともに、青山学院の礎となりました。 

 
 
当時の海岸女学校


所在地 中央区明石町14-19 (水たき 治作)

 江戸幕府は、慶応3年(1867年)に、江戸築地鉄砲州明石町の一帯を外国人居留地と定め、この地に税関業務等を行う運上所を設置しました。
 これが、東京税関の始まりです。



所在地 中央区明石町6-24

  女子聖学院発祥の地碑
 この地は女子聖学院発祥の地、もと築地居留地14番であった。
 そこに建つ14番館が、宣教師ジョン・マッケレフ先生の居宅だった。1905年、米国のクルスチャン・チャーチ(ティサイプルス・オブ・クライスト)の宣教師バーサ・F・クローノン女史が借り受け婦人伝道師の養成を始めた。開校式は同1905年11月1日教師3人に生徒10人であった、という。今日では幼稚園から大学院までを擁する総合学園になっている。
 学校法人 聖学院

 


所在地 中央区明石町10 (聖路加国際病院)

  立教女学院 築地居留地 校舎跡記念碑
 立教女学院は1877年キリスト教に基づく女子教育を目的に、米国聖公会により派遣されたC.M.ウイリアムズ主教によって、湯島に創立された。1882年立教女学院は築地居留地に移転して、新校舎を建設し、1923年の関東大震災までこの地にあってその教育事業を継続した。立教女学院のキャンパスは現在久我山にある。
 
St.Margaret's School was founded in 1877,with the aim of providing higher education for women based on Chiristianity.The school was started by Bishop Channing Moore Williams,who was sent as a missionary from the Episcopal Church in the United States,and was originally located in Yushima.
In 1882,the school mobed to the Tsukiji Foreign Settlement and constructed new school buildings St.Margaret's continued its mission of service through education at this location until the Great Kanto Earthquake of 1923.
The St.Margaret's campus is presently located in Kugayama,Tokyo.
 2007年11月1日 学院創立130周年 学校法人立教女学院


 
      初代の立教女学院校舎 1884年に完成 明治17年(1882)より明治30年(1923)迄


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