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東京都中央区の歴史
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所在地 中央区日本橋小網町16-23

 小網神社 

 日本橋七福神 福禄寿 弁財天

 東京下町 八社福参り 強運厄除


中央区民文化財
 小網神社の社殿及び神楽殿

 社伝によれば、小網神社は小網山万福寺を別当寺として、室町時代中期、当地に祀られた稲荷社に起源するという。稲荷社は、明治時代初めの神仏分離令により、小網神社と称し、東堀留川の河岸地の一画であった現在地を社地と定めた。そして現在、小網町及び人形町の一部の氏神として、また東京下町に広く信仰を集めている。
 境内には、昭和4年(1929年)の造営による社殿及び神楽殿が残っている。社殿は伝統的な神社建築の形式を備え、向拝には優れた技法による昇り龍・降り龍・獅子・ばく・鳳凰等の彫刻がほどこされている。また道路際に建つ神楽殿は、五角形という特殊な平面形態を持つ。この社殿及び神楽殿は、中央区に現存する数少ない木造の神社建築として、棟礼等の造営に関係する資料とともに中央区民文化財に登録されている。

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所在地 中央区日本橋小網町16(京都吉忠株式会社)

 人形町から日本橋に通じる道に、親父橋と呼ぶ橋が架かっていました。

 この周辺の芳町には、江戸の頃から口入宿が軒をつらねるようにありました。

 以前は職業安定所、いまのハローワークには大勢の人が集まり、就職(奉公)先を選ぶ姿が、各々の店で見られたのが早朝の風景でした。江戸はもちろん近隣から集まってきて、生業に付きたい雇われを望む人、つまり職を求める人の希望を、次から次と帖面に書きとめる貼付けの役は、えんまと呼ばれている番頭でした。午前7時頃になると、一同に集まった広場で貼付けのえんまが、何処の何屋または何商売の飯炊き、あるいは出前持ちはどうか、と云うように職を斡旋するのが口入宿(くちいれやど)でした。

 明治になって早々から人形町通りが確立し、各店が並び繁昌したのは、江戸時代からここ一ヶ所に在った口入宿街に、毎日のように大勢の人が集まってきたのも、人形町繁栄の一助であったはずです。

            横丁の郷土史家  有田芳男



所在地 中央区日本橋小網町1~3先・日本橋蛎殻町1-1先

  行徳河岸
 かつて、箱崎町と小網町・蛎殻町の間には、運河である箱崎川が流れていました。寛永9年(1632)、南葛西郡本行徳村(千葉県市川市)の村民が小網町3丁目先の河岸地を幕府より借りうけ、江戸と行徳間で、小荷物や旅客の輸送を開始して以来、ここは行徳河岸と呼ばれるようになりました。江戸と行徳とをむすぶ船は毎日運航され、成田山新勝寺の参詣などで房総に向かう多くの人びとが、この水路を利用しました。
 平成14年(2002)3月 中央区教育委員会

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永山
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