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東京都中央区の歴史
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所在地 中央区東日本橋2-26

 明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。その際このあたりで逃げ場を失って焼死する者が多数出た。このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた。隅田川は当時武蔵下総両国の境界をなしていた。
 また延焼防止のため橋に向かう沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした。やがてこれが広小路となり、江戸三大広小路の一つとして上野、浅草に並び称せられる盛り場に発展した。
 
明治維新の頃、ここには新柳町、元柳町、横山町、吉川町、米沢町、薬研堀町、若松町があったが、昭和7年(1932年)合併して日本橋両国となり現在に及んだ。明治維新後100年を経た今日、まちの近代化はめざましく、広小路や両国の名も過去のものとして忘れ去られようとしているが、300年前火除け地が設定され、これが広小路に発展して行った事跡のなかには、先人の英知と努力が偲ばれてまことに意義深いものがある。
 
ここに由緒ある両国広小路の旧跡を永く保存するため、町会の総意により、この碑を建てた。
 昭和44年(1969年)11月3日 中央区日本橋両国町会 建碑

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所在地 中央区東日本橋2-6-8 (薬研堀不動院)

  順天堂発祥の地碑(順天堂発祥之地碑)
 順天堂の創始者佐藤泰然(1804~1872)は、長崎遊学でオランダ語と西洋医術を学び、天保9年(1838年)江戸に帰り薬研堀に居をかまえ蘭学方塾を開設しました。

所在地 中央区東日本橋2-6-8

真言宗智山派
 薬研堀不動院

関東三十六不動21番、御府内八十八ヶ所霊場23番

 薬研堀不動院は川崎大師平間寺の東京分院です。
 根来寺の大印僧都が不動尊像を背負って東国へ下り、天正13年(1585)当地に創建したと伝えられます。
 薬研堀不動院境内には『収めの歳の市之碑』、『講談発祥の地』、『順天堂発祥の地碑』があります。

所在地 中央区東日本橋2-6-8 (薬研堀不動院)

 遠く江戸時代の中頃より江戸の街では12月に入ると各地で歳の市がたった。
 
歳の市とは門松、しめ縄飾り、羽子板等の正月用品を売る市を云う。かつて東京の歳の市は12月14日15日の深川八幡に始まり、浅草観音神田明神、芝の愛宕神社、平河天神、湯島天神の両天神を廻って最後は28八日の薬研堀不動尊で終り、特にこの市を薬研堀不動尊納めの歳の市と言われた。初めの頃は梅の盆栽が売られ梅の市とも呼んでいた。戦前は、何十軒もの羽子板屋が薬研堀不動院門前に並び、横町には神佛具、臼、杵、まな板、ざる、箒等の迎春用品の露天が出店し当時の千代田小学校の通りには「がさ市」が立ちしめ飾り門松、竹、海老、こんぶ等が威勢よく売られ、身動き出来ぬ位の人出に下町情緒豊かな歳末風景がみられた。
 
先の大戦の頃は、戦火の拡大と共に、一時中断してしまい戦後なんとか復活させたものの時勢に合わずさびれる一方であった。
 
時移りようやく昭和40年(1965年)、地元の町会商店会の有志が是非とも江戸以来の伝統行事下町の風物詩をしっかりと後世に残すべきと「薬研堀不動尊 歳の市保存会」を組織して同時に近隣問屋街とも協賛し、衣料品、日用雑貨等を市価の半額で販売する「大出庫市」を併催することとなり、苦心経営の末、最近になってようやく往時の賑わいを取り戻すことが出来た。有り難いことです。
 
又、想いめぐらせば、戦前戦後を通じて、本院の大本山である川崎大使平間寺の厚いご加護を一貫して賑わったことも復興への銘記すべき事柄である。
 
本年は、大出庫市を併催して丁度30年の節目に当るので、歳の市復活に情熱を燃やした先人達を偲び、この町の今日までの歳の市への過ぎ越し方をこの碑に留め一つの証とする。
  
平成8年(1996年)4月15日

所在地 中央区東日本橋2-6-8 (薬研堀不動院)

 元禄の昔、赤松清左衛門は浅草見附辺の町辻で太平記を講じ、江戸講釈の発祥となった。これがのちに「太平記講釈場」に発展して長く庶民に親しまれ、安政年間、「太平記場起原之碑」が建てられた。この碑はその後、当薬研堀不動院境内に移され、大正12年(1923年)の関東大震災まで名物となっていた。

 この度、当薬研堀不動院と講談協会との因縁により、真言宗宗祖弘法大師1,150年御遂忌を記念し、相はかって茲に新たに建碑をなすものである。

所在地 中央区東日本橋2丁目(神田川)  台東区

   中央区民有形文化財

 柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁です。

 その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡舟で往き来していましたが、不便なので元禄10年(1697年)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌元禄11年(1698年)に完成しました。

 その頃の柳橋辺りは隅田川の舟遊び客の船宿が多く、”柳橋川へ蒲団をほうり込み”と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。

 明治20年(1887年)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正12年(1923年)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツ、ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和4年(1929年)に完成しました。

 完成から70余年、現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成3年(1991年)に整備し、平成11年(1999年)に区民有形文化財に登録されています。

     平成14年(2002年)3月 中央区教育委員会



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