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東京都中央区の歴史
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所在地 中央区明石町10 (聖路加国際病院)

 明治16年(1883年)ごろ、この付近(当時の京橋区入船町8丁目1)に「耕牧舎」という乳牛の牧場がありました。作家芥川龍之介(1892~1927)は、明治25年(1892年)3月1日、その経営者新原敬三の長男として、ここに生まれました。
 
龍之介は誕生後7ヶ月にして、家庭の事情から母の長兄芥川道章に引き取られて、本所区小泉町(現、墨田区両国3丁目)に移り、12歳の時、芥川家の養子になりました。
 
東京帝国大学在学中から文筆に親しみ、夏目漱石の門に入り、「地獄変」「羅生門」「河童」「或阿呆の一生」など、多くの名作を遺しましたが、昭和2年(1927年)7月24日、35歳で自害しています。

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所在地 中央区八丁堀1・2丁目 中央区新川2丁目

 亀島橋は元禄12年(1699年)の町触(まちぶれ)に橋普請の記載がありこのころ架橋されたと考えられる。

 大正12年(1923年)関東大震災で被害を受け、内務省復興局により昭和4年(1929年)に鋼上路アーチ橋として復興されたが、戦時中の物資不足を補うため高欄等が供出された。

 「亀島」の名称は、昔、瓶を売る者が多くいたからとの説と、かつて亀に似た小島があったからとの説がある。

 今回の架け替えに当たり、当時のデザインを生かしつつ、地域のシンボルとして21世紀に誇れる橋とした。

 江戸時代の八丁堀には町奉行配下の与力・同心の組屋敷が置かれ、新川は酒問屋を中心とした問屋の町として栄え、亀島川には全国からの物資を運ぶ船が往来し、繁栄していた。

 現在、亀島橋は東京駅と大川端リバーシティ方面を結ぶ重要な橋であり、亀島川は江戸時代のなごりをとどめる貴重な川のひとつとなっている。

所在地 中央区明石町10先

 慶応義塾の起源は1858年福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾に由来する。その場所はこれより北東聖路加国際病院の構内に当る。この地はまた1771年中津藩の医師前野良沢などがオランダ解剖書を初めて読んだ由緒あるところで、日本近代文化発祥の地として記念すべき場所である。

所在地 中央区湊2-18

 文化4年(1807年)富岡八幡宮祭礼日に永代橋の崩落事故が起り2,000余名もの犠牲者が出ました。その後も大火災、大地震、疫病は江戸一帯を襲い多数の死傷者が出ました。明治時代に入りこの地に怪奇現象が起こり川底から一体の石像と多数の人骨、歯牙歯骨が出ました。人骨は両国の回向院に、石像と歯牙歯骨はこの地に葬って供養しています。歯を病む者が祠前の塩を持ち帰り口中を漱げば痛みが治り、お礼に塩や揚枝を供する習しで霊験すこぶるあらたかな地蔵尊として篤い信仰を集めています。

 供養祭 毎年6月6日

所在地 東京都中央区明石町10

 ジュリア・カロゾルスが1870年、築地居留地6番にA六番女学校を創設、米国長老会に所属した。

所在地 東京都中央区明石町10・11地域

 常陸笠間(茨城県笠間市)藩主浅野長直(1610~1672)は、正保2年(1645年)、播磨赤穂(兵庫県赤穂市)に領地替えとなり、53,500石を領して内匠頭と称しました。子の長友の代に分与して5万石となります。
 ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯8,900余坪の地は、赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、西南二面は築地川に面していました。
 
忠臣蔵で名高い浅野内匠頭長矩(1665~1701)は、長友の子で、元禄14年(1701年)、勅使の接待役の推されましたが、3月14日、その指南役であった吉良義央江戸城中で刃傷に及び、即日、切腹を命ぜられました。この江戸屋敷及び領地などは取り上げられ、赤穂藩主浅野家は断絶しました。

所在地 中央区京橋2・3丁目 中央区八丁堀3・4丁目

 弾正橋は古く江戸寛永年間には既に、楓川上にかかっているのが記されており、北八丁堀に島田弾正少弼屋敷があったのがその名の由来のようである。弾正橋は当時交差した堀川上に真福寺橋、白魚橋と共に三つの橋がコの字状に架けられていたことから、江戸名所図会に「三ツ橋」として紹介されており、江戸における一つの名物であったようである。

 その後たびたび架替えられたが、明治11年(1878年)に工部省の手により、我が国最初の国産の鉄を使った橋として架替えられた。その時の橋は現在でも江東区富岡1丁目に保存され、昭和52年(1977年)に国の重要文化財として指定され、平成元年(1989年)にはアメリカ土木学会の栄誉賞も受ける等その歴史的貴重さを増している。

 現在の橋は大正15年(1926年)12月に復興局によって架替えられたもので、従来の弾正橋よりやや北側に位置している。その後昭和39年(1964年)の東京オリンピックの時に、弾正橋の西側に公園が造成され、平成5年(1993年)2月に公園と一体化された。くつろぎのある橋として再整備された。尚、公園にあるモニュメントは、明治11年(1878年)、楓川に架かる弾正橋を象徴化して復元したものである。

所在地 東京都中央区明石町9

 江戸幕府は安政5年(1858年)に欧米五カ国と修好通商条約を結び、横浜・神戸など五港の開港と江戸・大阪の開市を取り決めました。居留地は開港・開市の土地に設けられた条約締結国の外国人の居住や通商のための専用特別区でした。

 江戸(東京)の開市は明治元年(1868年)、明治政府になってからで、この条約に基づいて現在の明石町地域を築地居留地と定めました。

 築地居留地は商館の多かった横浜や神戸などは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し教会や学校などを数多く開いて教育を行っていました。このため、築地居留地は日本の近代化に大きな影響を与えた一地域を形成していました。

 明治に描かれた築地居留地の銅版画からは、洋風建築が建ち並び異国情緒あふれる街の様子をうかがうことができます。

  中央区教育委員会

所在地 東京都中央区湊3-18

 (中央区民文化財)

 佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲でした。江戸幕府初代将軍徳川家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区)の漁民を招いて住まわせたところと伝承されています。この島と対岸の船松町(佃大橋西詰付近)との間に生保2年(1645年)に通ったのが佃の渡しです。

 明治9年(1876年)には、渡し銭一人5厘の掲示札の下付を願い出て許可され、大正15年(1926年)東京市の運営に移り、翌昭和2年(1927年)3月に無償の曳船渡船となりました。「佃島渡船」の石碑は、手こぎ渡船を廃止した記念として、この時期に建てられたものです。

 昭和30年(1955年)7月には1日70往復にもなりましたが、昭和39年(1964年)8月の佃大橋の完成によって300年の歴史を持つ佃島渡船は廃止されました。

 渡船の歴史を記念する史跡として、中央区民文化財に登録されています。



所在地 東京都中央区湊1-6-7

 鐵砲洲稲荷神社(鉄砲洲稲荷神社
 鐵砲洲の地は、徳川家康入府の頃は、既に鐵砲の形をした南北凡そ八丁の細長い川口の島であり、今の湊町や東部明石町の部分が之に相当します。寛永の頃は此処で大砲の射撃演習をしていたので、此の名が生まれたとも伝えられています。昔の海岸線は現在のものより遥かに奥まったものであって、八町堀の掘られたのが慶長17年(1612)であり、京橋あたりの土地形成が、天文の頃、足利義輝の治世になっていますが、之等京橋地区一帯の土地生成の産土の神こそ、現在の鐵砲洲稲荷神社の「生成大神」であります。
 遠く平安時代初期の人皇第五十四代仁明天皇の承和8年(841)に年来打続く凶作に教えられる所あって、此の土地の住民達が、自らの産土の国魂神を祀り、万有の生命を生かし成し給う大御親生成の大神として、仰いでその神恩を感謝し奉り、日常の御守護を祈願致しました。所が此の御鎮座の地が、当時の東京湾の最も奥に位置していました為に、港として諸船舶の出入繁く、霊験のあらたかなる神徳と相まって当然の結果として船乗人の崇敬が頗る厚くなりました。その後埋立が進行して、現在の京橋のあたりへ御遷座となり、更に室町末期の大永年中に氏子崇敬者達の願望によって、又新し、海岸へ遷座し奉って八町堀稲荷神社と称しました。今の新京橋の近くであります所が更にその後年にも埋立が進行して、海岸が東方へ移りましたので、寛永元年(1624)には南八町堀地続きとなった鐵砲洲に生成大神を御遷座申し上げ、従来から鐵砲洲御鎮座の八幡神社を摂社とし、以って今日の鐵砲洲稲荷神社の基礎を築かれました。此の時代を通じて江戸で消費する米、塩、薪炭を始め、たいていの物資は悉く此の鐵砲洲の港へ入って来ました為に、大江戸の海の玄関に位置する此の鐵砲洲に御遷座のいなり大神は、船員達の海上守護の神としても崇敬されました。港が横浜や芝浦に移転してしまった現在でもなお、特殊神事冬至開運祈願祭に授与する「金銀富貴」の神礼等は、全国的に篤く崇敬されて、諸諸方々の人々から拝戴されています。抑も此の神礼は、此の土地の氏子達は勿論のこと、全人類をして悉く、「富み且つ貴からしめたい」との御神慮に基くものであります。
 され、我等は如何にして富み且つ貴くなる事が出来るかと言うに、それには、各自悉くが自分の親を大切にして先祖を供養し、子孫の為に善根を培って行けば人も自分も先祖も子孫も、此の世にも彼の世にもみんな救われて永遠の生命に生きることが出来ます。また天地生成の恵みに感謝し、人のお蔭様に報恩の誠を捧げて行けば、必ず富み且つ貴い運命を開く事が出来ます。此の運命開拓の御催促と共に力の不足に対する、力の本源である大御親神から愛子への愛の御力添えが、此の金銀富貴の神礼であります。










                        神楽殿






 鉄砲洲稲荷神社は、江戸湊の入口に鎮座する神社として、地域の人々の信仰を集めてきました。
 神社は、寛永元年(1624年)頃、稲荷橋南東詰に遷りましたが、明治元年(1868年)現在地に移転し、今日に至っております。
 関東大震災により被害をうけた境内は昭和10年(1935年)より復興、整備され、正面中央奥に社殿、左手に神楽殿と摂社八幡宮、右手に社務所と手水舎が向かい合うように配置され、境内西南隅に神輿庫が設けられています。また、西北隅には富士山の溶岩で築いた富士塚があり、そこを富士振興の場としていました。むかしの富士塚は「江戸名所図会」にも描かれた有名なものでした。
 境内は昭和初期の神社建築とその配置の有様をよく伝えており、また、富士塚も区内唯一の富士信仰の名残りをとどめている点から、共に中央区民文化財に登録されています。
  平成5年(1993)3月 中央区教育委員会



 鐵砲洲稲荷神社には『富士塚』、『和平神繆斌顯彰碑』、『力石』、『八幡神社』、『針塚』があります。


 

所在地 東京都中央区新川2-20

 徳川期この地新川は、越前松平家の下屋敷が三方掘割に囲われ、広大に構えていた(旧町名越前堀はこれに由来する)。その中に小さな稲荷が祀られていたと言う。御神体は徳川家の遊船の舳を切って彫られたものと伝えられる。

 明暦3年(1657年)、世に云う振袖火事はこの地にも及んだが御神体はあわや類焼の寸前何を免れ、大正11年(1922年)に至るまで土地の恵比須稲荷に安置された。関東大震災では再度救出され、昭和6年(1931年)隅田川畔(現中央大橋北詰辺り)に社を復活し町の守護神として鎮座したが、戦災で全焼。昭和29年(1954年)同処に再現のあと平成3年(1991年)中央大橋架橋工事のおため、この地に遷座となる。

 列祭は11月15日である。

所在地 中央区新川2-20・31 中央区湊1-8・14 (亀島川)

 (区民有形文化財)

 創架年代は、昭和6年(1931年)に起工、同年七月に竣工。

 現在の南高橋の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみでした。大正12年(1923年)の関東大震災ののち、街路の大規模な区画整理が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀1丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。

 東京市は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治37年(1904年)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのです。

 都内において、珍しくも明治37年(1904年)のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)についで2番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で6番目に古い橋梁になります。

 区民有形文化財に登録されています。

 

 

 

所在地 東京都中央区明石町7

 明治学院は明治10年(1877年)、ここ旧築地17番地に解説された東京一致神学校を基とする。

 

 

所在地 東京都中央区明石町10先

 蘭学者 前野良沢(1723~1803)、杉田玄白(1733~1817)を中心に、桂川甫周らが協力してオランダ語の医書『解体新書』5巻を完成させた。

 

 

 

所在地 中央区日本橋室町1-4-1 (三越本店)

 日本橋三越本店の入口を守る一対のライオン像は、ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン記念塔下のライオン像を模し鋳造されたものです。”気品と勇気と度量”の象徴として、また、ご来店のお客様の守護神として大正3年(1914)本店のルネッサンス様式建築の本館ライオン口に設置されました。以来、東京名所の一つとして親しまれ、待ち合わせの場所としても有名です。
 
このライオン像は、”必勝祈願の像”として、誰にも見られずに背にまたがると念願がかなうと言い伝えられ、特に受験生の間に人気があります。

所在地 中央区銀座1-2

 (中央区民文化財)

 京橋は、江戸時代から日本橋とともに有名な橋でした。橋は、昭和34年(1959年)、京橋川の埋め立てによって撤去され、現在では見られませんが、その名残をとどめるものとして、三本の親柱が残っています。

 橋北詰東側と南詰西側に残る2本の親柱は、明治8年(1875)当時の石造の橋のものです。江戸時代の橋の伝統を引き継ぐ擬宝珠(ぎばし)の形で、詩人佐々木支陰の筆によって、「京橋」「きやうはし」とそれぞれ橋の名が彫られています。

 一方、橋南詰東側に残る親柱は、大正11年(1922年)にかけられた橋のものです。石及びコンクリート造で、照明設備を備えたものです。

 京橋の親柱は、明治、大正と二つの時代のものが残ることから、近代の橋のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。

所在地 中央区銀座1-11-2

 明治3年(1872年)2月26日、銀座は全焼し、延焼築地方面に及び焼失戸数4,000戸と称せられる。

 東京府知事、由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企割建策し、政府は國費を以って煉瓦造2階建アーケード式洋風建築を完成す。

 煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり。 

 所在地 中央区日本橋1-18-1 (日本橋郵便局)

 ここは、明治4年(1871年)3月1日(4月20日)日本の近代的郵便制度は、前島密の創意により、東京~大阪間で始まり、この地に駅逓司(現在の日本郵政公社)と東京の郵便役所(四日市郵便役所とも呼ばれ、現在の東京中央郵便局)が置かれたところです。

所在地 中央区日本橋小伝馬町3-2 (身延別院)

 (都指定有形文化財)

 この坐像はヒノキ材の寄木造りで、像高70cm、袖長76cm、胡粉地に彩色を施しています。

 頭は円頂形をし、瞳は水晶製、右手に笏、左手に経巻を持ち、法衣は朱彩、牡丹唐草模様の袈裟の上に、同じ模様の横ひ(おうひ)をかけています。胎内に、明応6年(1497年)7月、施主河島盛正との墨書銘があり、仏師山城発教定蓮が造立した、室町後期の日蓮聖人座像です。

 明治16年(1883年)、身延別院創建の際、山梨県身延山久遠寺から迎え、本尊としました。大正12年(1923年)の関東大震災にも焼失を免れ、昭和47年(1972年)4月、都指定有形文化財に指定されました。製作年代の明確な日蓮聖人の座像として貴重なものです。

 所在地 中央区日本橋1-4

 (東京都指定旧跡)

 江戸時代のはじめ、下町一帯の井戸は塩分を含み飲料に適する良水が得られず付近の住民は苦しんでいました。

 正徳元年(1711年)、白木屋2代目当主の大村彦太郎安全は私財を投じて井戸掘りに着手しました。翌二年、たまたま井戸の中から1体の観音像が出たのを機に、こんこんと清水がわ湧き出したと伝えられています。以来、付近の住民ならず諸大名の用水ともなって広く「白木名水」とうたわれてきました。

 白木名水は湧出してから数100年の時を経て消失しましたが、江戸城下の歴史を理解する上で重要な遺跡です。この「名水白木屋の井戸」の石碑は江戸時代の呉服商を継いだ白木屋デパート、東急百貨店と続く長い歴史の後に、日本橋1丁目交差点角にあったものを平成16年(2004年)ここに移設再現したものです。

所在地 中央区日本橋本町2-8

宝田恵比寿神社(寶田恵比寿神社・寶田恵比壽神社)

 日本橋七福神 恵比寿神


 宝田神社は慶長11年(1606年)の昔、360年余年前江戸城外宝田村の鎮守様でありました。徳川家康公が江戸城拡張により宝田、祝田、千代田の三ヶ村(現在宮城内楓山付近)の転居を命ぜられましたので馬込勘解由と云う人が宝田村の鎮守様を奉安申上げ住民を引率してこの地に集団移動したのであります。馬込勘解由と云う人は家康公が入府の時三河の国から随行して、この大業を成し遂げられた功に依り、徳川家繁栄御祈念の恵比寿様を授け賜ったので平穏守護の御神体として宝田神社に御安置申上げたのが今日に至ったのであります。作者は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられます。

 其の後村民の生活は金銀為替、駅伝、水陸運輸、それぞれ重要な役を賜り馬込勘解由は名主となって三伝馬取締役に出世し御役名に因んで大伝馬町の町名を賜って、伊勢、駿河、遠江、美濃、尾張、家康公ゆかりの国々より商人を集めて、あらゆる物資の集散地として大江戸開発と商業発祥の地として大変賑わったのであります。現在も周辺の老舗大小商社が軒を並べて今尚盛んな取引が続いて居ります。宝田恵比寿神は商売繁昌、家族繁栄の守護神として崇教者は広く関東一円に及び毎年10月19日「べったら市」、20日の恵比寿神祭が両日に亘り盛大に執り行われています。べったら市は「年またあらたまる」今年も年末が近づきお正月を迎える心構えをする商家にとって大切な年中行事として旧家は今日でも恵比寿講をお祝いするのであります。 

所在地 東京都中央区日本橋本町2-6先

 徳川家康による江戸城築城のおり、寶田村が城の拡張により移転のやむなきに至った。譜代の家臣である馬込勘解由が寶田村の鎮守の御本尊を奉安して住民と共に現在地に移転した。

 この大業を成し遂げた功により、勘解由は江戸の筆頭名主となり年間役料は、210両の最高であった。後に三伝馬取締役に出世し、徳川家繁栄を祈願された恵比壽神を授けられ、寶田神社に安置して江戸の平穏を祈願した。

 御神体は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられ、以来商業の守り神として10月20日の恵比壽講の前夜に市が開かれるようになった。

 恵比壽講に使う鯛や神棚などと共に江戸名物の浅漬大根が売られ、売り子が大根に付いた糀を若い女性の着物に近づけ「ほら。べったら、べったら、買わないで通ると着物にくっ付くよ。」と戯れたことからべったら市の名がついた。

 徳川家康公江戸出府401年を壽き、ここに馬込勘解由の功績を讃え碑を建立するものである。

 所在地 中央区日本橋小伝馬町5-2(十思公園内)

 江戸で最初の時の鐘は、本石町3丁目(現在の本石町4丁目・室町4丁目の一部)に設置された石町の時の鐘であるといわれています。江戸市中に時刻を知らせた時の鐘は、市街地の拡大にともない、浅草・本所・上野・芝・市谷・目白・赤坂・四谷などにも設けられました。

 石町時の鐘は、鐘撞き役であった辻源七の書上によると、寛永3年(1626年)に本石町3丁目へ鐘楼堂を建てて鐘を撞いたことが記されており、鐘の音が聞こえる範囲の町からは「鐘楼銭」を集めて維持・運営が図られていました。

 本石町に設置された時の鐘は、何度か火災にあって破損したために修理や改鋳が行われました。現在の銅鐘には「寛永辛卯四月中浣 鋳物御大工 椎名伊豫藤原重休」の銘文が刻まれており、宝永8年(1711年)に鋳造されたことがわかります。

 「石町は江戸を寝せたり起こしたり」と川柳にも詠まれた石町時の鐘は、明治をむかえて廃止されましたが、昭和5年(1930年)に本石町から十思公園内に完成した鉄筋コンクリート造の鐘楼へ移設されて現在に至っています。

所在地 中央区日本橋小伝馬町5-2

 江戸の牢屋敷は慶長18年(1613年)に、常磐橋外からこの小伝馬町に移転した。代々与力格の石出帯刀が牢屋敷預りに任命されており、管理していた。そして、明治8年(1875年)5月廃止されるまで存続していたものである。

 「御府内備考」の記録によれば、その規模の広大であったことがわかる。すなわち、面積は2,618坪(8639.4㎡)あり、さらに、これの敷地の4方を堀でめぐらしていた。南西部に表門があった。獄舎は、揚座敷、揚場、大牢および女牢部屋に分かれ、明暦3年(1657年)の収容囚人は130人であり、安政の大獄(1859年)には吉田松陰ら50余名が収容されたこともある。



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