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東京都中央区の歴史
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所在地 中央区日本橋人形町1-18-9 (大観音寺)

 (都指定有形文化財)

 この菩薩頭は鋳鉄製で、総高170cm、面幅54cm。頭頂部のみは後に補修され鋳銅製。頭上には高さ53cmの高髻(こうけい)があり、後補の鋳銅製蓮華座に乗っています。

 この像は、もと鎌倉の新清水寺にあった観音像でしたが、鎌倉時代の火災で崩れてしまいました。江戸時代に頭部が鶴岡八幡宮前の鉄井(くろがねのい)から掘り出され、明治初年の神仏分離の令に際し鎌倉から移され、明治9年(1876年)大観音寺に安置されています。以後、本尊として今日に至りました。毎月17日に開帳され、信仰を集めています。

 中世造立になる関東特有の鉄仏のうちでも、鎌倉時代製作の優秀な作品で、昭和47年(1972年)4月、都指定有形文化財に指定されています。

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所在地 中央区日本橋人形町1-7-10

 谷崎潤一郎(1886~1965)は、明治19年(1886年)7月24日、この地にあった祖父経営の谷崎活版所で生まれました。

 明治25年(1892年)、阪本尋常高等小学校に入学しました。その後、父の事業の失敗により、近くを転々としました。若くして文筆にすぐれ、東京帝国大学国文科を仮定の事情で中退したのち、第二次「新思潮」の同人となり、「刺青(しせい)」、「少年」など耽美と背徳の世界を華麗に描いて、文芸界で名を成しました。

 のち、日本的な伝統美に傾倒し、「蓼(たで)喰ふ虫」、「春琴抄(しゅんきんしょう)」、「細雪(さきのゆき)」、「少将滋幹の母」などを遺しています。その間、昭和12年(1937年)、芸術院会員に推され、昭和24年(1949年)には文化勲章を受章しました。

所在地 中央区日本橋人形町3-8付近

 江戸時代初期、新和泉町(人形町3丁目)のこの辺りは、幕府の医師であった岡本玄冶の排領屋敷があったことから「玄冶店(げんやだな)」と呼ばれていました。
 岡本玄冶(1587~1645)は京都に生まれ、医術を曲直瀬道三まなせどうさん(玄朔)に学びました。元和9年(1623年)、京都に上洛中の徳川家光が江戸へ帰る際に侍医として招かれ、幕府の医師となりました。後に法眼から法印に叙せられて啓迪院と号しました。
 3代将軍家光は岡本玄冶を重用し、数多くの功があったことが記録に残されています。「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしょかふ)」には、寛永10年(1623年)、家光が大病を病んだ時、諸医術をつくしても効験がなかった病を玄冶が薬を奉り平癒したとあり、この功により白銀200枚を賜ったことが記されています。
 岡本玄冶の拝領屋敷は「寛保沽券図(かんぽうこけんず)」によると、「表京間60間 裏行京間25間 坪数1,500坪」とあります。当地にはその後、9代にわたって子孫が住み、明治維新で地所を奉還したと伝えられています。岡本玄冶は正保2年(1645年)に没し、広尾の祥雲寺(渋谷区)に葬られました。
 玄冶店の名は、歌舞伎狂言作者の三代瀬川如皐(じょこう)が脚色し、嘉永6年(1853年)に中村座で初演された「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」の「源氏店(玄冶店)の場」の一幕で、お富と切られ与三郎の情話の舞台となり、その名が広く世に知られるようになりました。

 

所在地 中央区日本橋人形町1-17-10 『玉ひで』 

 宝暦10年(1760年)先祖山田鐵右衛門、御鷹匠の家に生まれ、27才の折、将軍家に出仕するかたわら、妻「たま」と共に『御鷹匠仕事』をもって家業を興し、現在の人形町3丁目にあたる地に屋号を『玉鐵』と称して、軍鶏専門の店を創業致しました。

 御鷹匠仕事とは将軍家の御前にて鶴を切る厳儀に由来する格式の高い包丁さばきでございます。家伝の法は、放血せずに〆た鳥を、血を見せることなくただちに骨と身にとり分け、肉に手をふれずに薄く切る練達の秘法でございます。

 初代鐵右衛門は将軍家御鷹匠の職を奉じていたため、特定の顧客のみに、その独特の包丁を披露いたしておりました。

 その後、二代鐵之丞・三代鐵之助の嘉永5年(1852年)に上梓された名物店番付『江戸五高昇薫』には「しゃもなべー四谷御門内万蔵金・ミソヤシンミチ大はし・住吉丁玉てつ・馬道桜や・スキヤカシ中嶋」とあるように、鳥料理五店の中に選ばれ、今も続いている他の業種の老舗ともども収載されております。その頃、幕閣の御鷹匠廃止の動きに加え、御鷹匠仲間と起こした不始末などもあり、それを機に、三代鐵之助はその職を返上し、倅四代目善次郎と共に軍鶏なべ専門の店としての営業に専念することになりました。

 四代善次郎の慶応元年(1865年)には、たべもの店番付『花長者』に、「イツミ丁  玉鉄  あいかも  じゃも」(後の町名地番制定により 新和泉町七番地=現在 人形町3-11-11)とあり、かわらぬ繁盛の体をつたえております。また、明治8年(1875年)には『東京牛肉・しゃも流行見世』の番付に載る有名店として評判を得ております。

 おりから、蠣殻町に水天宮の遷座・米殻取引所の開設などがあり、これによる米屋町・人形町通りの繁盛にともない、明治16年(1883年)現在の営業地、人形町1-17-10(当時 蠣殻町2-14)に好適の地を得て、蠣殻町『玉鐵』として支店を開業し、その営業を倅秀吉(当時16才)に任せることになりました。

 明治25年(1892年)千穐庵選『當世雷名八称人』(各種有名八店の番付)には『鳥肉八鮮』の中に推されております。このように皆様のごひいきを頂き、新和泉町・蠣殻町二店の営業をつづけるなかで、明治28年(1895年)、蠣殻町店の店舗拡大にともない本支店を統合して、お客様方の贔屓に応えることになりました。

 その間に、鳥鍋の残りの割下に卵をとじる召し上がり方にヒントを得た秀吉の妻「山田とく」の創案によるわが国最初の「親子丼」がお出前として売り出され、兜町・米屋町・旧魚河岸(日本橋)を中心に時好に投じたものとして喧伝され、しだいに全国にひろまってゆきました。以来、親子丼発祥の店としてその名を知られております。

 明治30年(1897年)、「秀さん、秀吉つぁん」とお客様や近所界隈に人気のあった秀吉が五代目を継承し、それまでの「玉てつの秀さん」の店という蠣殻町店の通り名が、明治31年(1898年)の毎朝新聞による料理店の人気投票の番付には、『玉秀』としてご投票いただくまでになりました。現在つかっております『玉ひで』の屋号は、お客様に呼び親しまれていた通称で、いわば、お客さまにつけていただいた屋号であります。

 

 

所在地 中央区日本橋人形町5・6・7・17・18番地域

 銀座とは江戸時代の銀貨の製造工場である銀座会所と、通用銀貨の検査や銀地金(じがね)の購入などを扱う銀座役所を総称した組織でした。そしてその経営は幕府の直営ではなく、御用達町人に委託しました。

 江戸の銀座は慶長17年(1612年)に今の銀座2丁目の場所に置かれ、その188年後の寛政12年(1800年)6月に、寛政改革(1787~1793)の一つである銀座制度の大改正のため一旦廃止されました。

 その年の11月、改めてこの人形町の場所に幕府直営の度合いを強めた銀座が再発足しました。

 当時この付近の地名が蛎殻町だったため、この銀座は人々から『蛎殻銀座』と呼ばれ、明治2年(1869年)に新政府の造幣局が設置されるまでの69年間存続しました。

所在地 中央区日本橋人形町1-1・日本橋小網町14・日本橋蛎殻町1-10~13

 
  西郷隆盛屋敷跡
 今、魚久本店のあるこのあたりは、江戸時代末期、姫路の殿様 酒井氏の屋敷があり、又その後には明治維新の三傑の一人、西郷隆盛が明治政府の参議となった頃、居を構えていた場所です。
 明治初め、この地域には明治維新の元勲西郷隆盛(1827~1877)の屋敷がありました。
 明治6年(1873)の「第壱大区沽券図」には、「蛎殻町1丁目壱番/二千六百三十三坪/金千五百八十六円/西郷隆盛」とあります。屋敷には長屋に15人ほどの書生を住まわせ、下男を7人雇い、猟犬を数頭飼っていたといわれています。
 維新後、西郷隆盛は郷里鹿児島にいましたが、明治4年(1871)に新政府から請われて上京し、参議に就任、同明治4年(1871)年10月に岩倉具視を特命全権大使とし、大久保利通、木戸孝允等を副使とする使節団が米欧へ派遣された後には、筆頭参議として留守政府首班となり、学制・徴兵制度・地租改正などの重要政策を実現しました。
 明治6年(1873)になって、朝鮮との国交問題が緊迫し、武力出兵を主張するいわゆる征韓論が高まりを見せるなか、西郷は自らが朝鮮に渡って交渉することにより、問題の解決にあたろうとしました。閣議でもいったんは西郷の施設派遣が決定されましたが、海外の視察から帰国した大久保等の猛烈な反対により使節派遣は中止となります。この決定を受けて、西郷をはじめ、板垣退助や後藤象二郎等が参議を辞して下野しました(明治6年の改変)。
 下野後、西郷はこの地にあった屋敷を引払い、鹿児島に帰郷します。鹿児島では、士族子弟の教育のために私学校をつくり、また農耕と狩猟に悠々自適の生活を送っていましたが、明治10年(1877)に西南戦争を起こし自害しました。
 平成19年(2007)3月 中央区教育委員会

作  松橋博

    中田浩嗣

所在地 中央区日本橋人形町1-6-10先

 あやつり人形のバネは今でも鯨ヒゲが使われています。

 特に人形浄瑠璃から伝承された文楽人形の命とも言える精妙な首の動きは、弾力に富んだ鯨ヒゲでなければ出せないそうです。

 ここ人形町一帯は寛永10年(1633年)頃から、江戸歌舞伎の「市村座」「中村座」、人形浄瑠璃の糸あやつり人形結城座、手あやつり人形の薩摩座などの小屋が集まり、江戸町民の芝居見物が盛んでした。

 そして、それらの人形を作る人形師や雛人形、手遊物などを商う店がたくさん立ち並んでいたところから、昭和8年(1933年)、正式に人形町という地名になりました。

     
2002年7月



所在地 中央区日本橋人形町

   甘酒横丁の由来
 明治の初め頃にこの横丁の入口の南側に尾張屋という甘酒屋があったことから昔は『甘酒屋横丁』と呼ばれていた。 
 当時の横丁は今より南に位置しており道幅もせまい小路であった。
 明治の頃この界隈には水天宮様をはじめ久松町には明治座が櫓をあげており近くには”末廣””喜扇亭””鈴本亭”の寄席が客を集めていた。
 また穀物取引所の米屋町、日本橋の川岸一帯の魚河岸、兜町の証券取引所が隣接していることからもこの界隈が賑わっていた。
 関東大震災後の区画整理で現在のような道幅になり、呼名も『甘酒横丁』と親しまれ人々に呼びつがれている。


所在地 中央区日本橋人形町2-25

  末廣神社すえひろじんじゃ

 日本橋七福神 毘沙門天

祭神  宇賀之美多摩命
例大祭 5月
氏子 人形町2丁目浪花会・ 人形町2丁目二之部町会

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 末廣神社は、江戸時代の初期に吉原(当初葭原と称した)がこの地にあった当時(元和3年〔1617〕から明暦3年〔1657〕まで)その地主神産土神として信仰されていました。明暦の大火で吉原が移転してからは、その跡地の難波町・住吉町・高砂町・新和泉町の4ヶ所の氏神として信仰されていました。
 社号の期限は、延宝3年(1675)社殿修復のさい年経た中啓(翁)が発見されたので氏子の人たちが悦び祝って末廣の二字を冠したものです。


所在地 中央区日本橋人形町3-8-6

  橘稲荷神社
 このあたり江戸期に新和泉町といわれたが、将軍家御典医・岡本玄冶の邸があったことから、一帯を玄冶店と俗称した。
 当稲荷ははじめ御殿山にあったものが、のちに江戸城内へ移り、さらに玄冶に賜って当地へ移された。
 稲荷名の橘は岡本家の姓に因んだとされる。
 安政6年(1859)の尾張屋清七板古地図では、現在地よりやや北側に記されている。
 数百年に亘り、素朴な信仰の対象として土地の人々により守り継がれて来た。特定の個人や企業の所有ではなく、町のお稲荷さんとして親しまれている。
 大正以降、運よく震災・戦災を免れて来たが、老朽化の為このほど地元町民多数の浄財により再建された。
 平成2年(1990)8月吉日 橘稲荷御造営奉賛委員会


所在地 中央区日本橋人形町

  元吉原
 江戸時代の初め元和3年(1617)に葦の繁茂する湿地を埋立して造成されたのがこの土地です。
 一方、14,000余坪を堀で囲んだ遊郭は江戸一番の歓楽の地と成りました。
 しかし、明暦3年(1657)の江戸の大火で焼失した吉原遊郭は39年間この地で栄えましたが、浅草山谷へ移されました。
 後地は新和泉・住吉・高砂・浪花の4ヶ町の商業の地となり、周辺の商店と共に大いに繁昌し今日に受けつがれています。

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所在地 中央区日本橋人形町1-13

日本橋七福神 布袋尊 

  茶ノ木神社(茶の木神社)〔佐倉藩中屋敷跡〕

 「お茶ノ木様」と町内の人に親しまれている茶ノ木神社の御祭神は倉稲短市井大神(ウカノミタマノオオカミ)で伏見系の稲荷様である。
 昔この土地は徳川時代約三千坪に及ぶ下総佐倉の城主大老堀田家の中屋敷であって、この神社はその守護神として祀られたものである。
 社の周囲に巡らされた土堤芝の上に丸く刈り込まれた茶の木がぐるりと植え込まれ、芝と茶の木の緑が見事であったと伝えられている。
 その中屋敷内は勿論のこと周囲の町方にも永年火災が起こらなかったため、いつのころから誰言うとなく火伏の神と崇められ、堀田家では年1回初午祭の当日だけ開門して一般の参拝を自由にされた由「お茶ノ木様」の愛称で町の評判も相当であったと伝えられている。
 また、新たに昭和60年(1985)布袋尊を御遷座合祀申し上げて日本橋七福神詣りに加わることになった。
 布袋尊は実在した中国唐代の禅僧で、阿弥陀菩薩の化身といわれている。福徳円満の相が喜ばれ、世の清濁を併せ呑む大きな腹をして袋の中にいっぱいの宝物を入れ、人々に福運大願を成就させる和合成就の神様として崇められている。


所在地 中央区日本橋人形町2-15-2 (松島ビル)

 日本橋七福神 大国神   松島神社

鎌倉時代の元享(1321)以前、この辺りが入り海であった頃小島があり諸神を勧請し、夜毎掲げる燈火を目標に舟人が航海の安全を得たと伝えられる。島内松樹鬱蒼たるにより人々松島稲荷大明神と唱え、正徳3(1713)新町が開設される時に社号に因んで町名を松島町と称した。当時付近を埋め立て武家屋敷を造営するために、日本各地から技をもつ人々が集められそのまま住まいを構え町の中心に位置した松島稲荷に、それぞれの故郷の神々の合祀を頼んだために他社に比べ御祭神が14柱と多い。
 明治7年4月2日松島稲荷神社の名称を以って村社に列格される。
 大正5年6月10日松島神社と改称。
 昭和8年2月1日都市計画法の実施に伴い蛎殻町4丁目に改称せられ、その為松島町は消滅する。
  御祭神
稲荷大神・伊邪那岐大神・伊邪那美大神・日前大神(天照大神)・北野大神(菅原道真公)・手置帆負神・彦狭知神・淡島大神・八幡大神・猿田彦神・琴平大神・天日鷲神(大島大神) 大宮龍売神(おかめさま) 大国主神(だいこくさま)

 


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