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東京都中央区の歴史
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所在地 中央区日本橋浜町1-4付近

 古歌をとおして、わが国の古典学の基礎を築いた賀茂真淵(かものまぶち)(1697~1769)は、現在の浜松市の出身で、はじめ京に出て荷田春満(かだのあずままろ)に入門し、元文2年(1737)江戸に下り、田安宗武(たやすむねたけ)(徳川三卿の一人)に迎えられ、和学を講じた。

 隠居後、浜町山伏井戸の東方に住み、県居の翁(あがたいのおきな)と称し、「万葉考」「歌意考」「国意考」「祝詞考」等を著した。また歌会なども多くを開き、その作品は今に伝えられている。

 

 あがた居の茅生(ちぶ)の露原かきわけて

                   月見に来つる都人かも

 

 その旧跡は、この地点の北東約100mのあたりである。

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所在地 中央区日本橋浜町2-9先

 和田啓十郎先生は漢方医学がまさに絶滅せんとしたとき、この地において衣を薄うし食を粗にして得たる資金を以て明治43年(1910年)、「醫界之鐵椎」を自費出版し、漢方医学の復興に起ち上った。

 今や漢方再興の気運に際会し先生の旧趾に碑を建て、その偉業を顕彰するものである。

所在地 中央区日本橋浜町2-57先 新大橋西詰

<避難記念>

貴族院議員正四位伯爵有馬頼寧 篆額


嗚呼想ひ起すも肌に粟を生するを覺ゆるは大震火災の状況なり時は大正十二年九月一日所は新大橋の上難を避くる數萬の大衆の九死に一生を保ち得たるは實に神人一致の力と申すべきか此の時橋の兩側より狂ひに狂ひ燃えに燃え來る紅蓮の舌は毒焔を吐きつつ刻一刻と橋上に迫る退くも火進むも火身を躍らして河に投ぜむか滔々たる濁流は一氣に呑み去らむのみ進退維れ谷り號叫の聲天に漲り慘状目も當てられす此の時大衆は橋上に御遷座あらせられたる水天宮小網稻荷神社  玄冶店 橘神社の御靈代を伏し拝み神助を熱禱したり又警官在郷軍人其他有志の人々は火を導く恐ある荷物を悉く河中に投せしむ中には貴重の物とて泣きて拒みしも萬人の生命には替へ難しとて敏捷果斷なる動作は寔に時宜を得たる處置なりき漸く人享を盡し神助を待ちたるに夜も明け火も鎮まりて大衆は始めて我に還り知るも知らぬも再生の思をなして喜び合ひたり且つ五大橋中此の橋のみ災害を免れ得たるは正に神助と人の力となりけり其後法木徳兵衛主唱し森田恒一加藤肆郎庄野又兵衛之に賛して發起者となり此の橋上にて免れたる人々相集り大震火災新大橋避難記念會を組織し毎歳當日を期して水天宮に報賽の祭典を行ひ同橋上に集りて當時を追憶し來る乃ち本年は満十回に當るを以て思出深き新大橋西側の一隅に碑を建て事を叙して之を永久に記念となす
 昭和八年九月二日
   水天宮社掌 樋口悌次郎撰
  
 荷葉山岸惣書

所在地 東京都中央区日本橋浜町2丁目

 本堂は昭和20年(1945年)3月10日の戦災に依り死没せる幾多の霊の冥福を祈る為建立す。

   昭和25年(1950年)12月  発願主 新田新作

 所在地 中央区日本橋浜町2・3 ~ 江東区

  新大橋の由来

 新大橋は、元禄6年(1693)12月7日に現在地よりやや下流に、はじめて木の橋が架けられた。
 両国橋が、万治2年(1659)に架けられて、その当時「大橋」と呼ばれていたので、 その下流に新しく架けられたこの橋を「新大橋」と称した。
 その頃、新大橋近くの深川に住んでいた俳人松尾芭蕉は、新大橋架橋を喜んで次の句をよんだ。

  初雪やかけがかりたる橋の上 

  有難やいただいて踏む橋の霜




 以来、新大橋はたびたび架けかえられたが、明治45年(1912)2月19日、現在位置に鉄橋の新大橋が誕生した。
 この鉄の橋は、関東大震災(1923)および太平洋戦争の大空襲(1945)にも耐え、橋上において多くの人の命が助かったため、「人助けの橋」といわれるようになった。
 その鉄橋は、六十有余年の間、道路橋としての使命を十分に果たして、昭和52年(1977)3月27日、現在の橋に架けかえられた。
 なお、その鉄橋の一部は、愛知県犬山市の「明治村」に保存されている。





 

 新大橋西詰には『震災避難記念碑』、『人助け橋の云われ碑』があります。

所在地 東京都中央区日本橋浜町2-57先 新大橋西詰

 大正12年(1923年)9月1日、突如として起った関東大震災は随所で火災を誘発し、そのため各所で橋が焼け落ち多数の痛ましい犠牲者を出した。しかし幸いにも明治45年(1912年)に建造された新大橋だけは火災からまぬかれ、逃げ惑う1万有余の尊い生命を救い、かつ、遮断された各方面への交通を一手に引受けて、避難橋としての重責を十分に果たした。そのため、新大橋は多くの人々から「人助け橋」と呼ばれ永く親しまれるようになった。

 なお、当時久松警察署の新大橋西詰派出所に勤務する羽鳥源作、三村光、今給惣克巳、植木機禅、伊藤盛雄、浅見武雄ら各警察官は一致協力して多数の避難者を誘導し、さらに携行してきた荷物を橋詰で適切にさばいて火災の防止と避難路の確保のために活躍されたという。一身を顧みず沈着勇敢に行動されたその功績は、永く後世に称えられるべきものである。
 昭和52年(1977年)3月27日  東京都建設局



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