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東京都中央区の歴史
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所在地 中央区明石町10 (聖路加国際病院)

 昭和8年(1933年)、トイスラー記念館は隅田川畔の明石町19番地に聖路加国際病院の宣教師館として建設されました。
 
設計者は米国人建築家のJ・V・W・バーガミニィで、施工は清水組(現在の清水建設株式会社)が行いました。建物の躯体は、昭和初期の住宅建築には珍しい鉄筋コンクリート造一部木造の二階建てで、ヨーロッパの山荘を思わせる重厚な風格のある建物でした。
 
平成元年に解体工事が行われ、平成10年(1998年)2月に現在地へと移築復元されました。復元にあたり、創設当時の施工技術や構造上の特徴を精密に記録し、再利用可能な部材をできる限り用いています。
 
外観は、外部に柱や梁を表現したハーフティンバー風の意匠です。室内はチューダー・ゴシック風のデザインで、玄関ホールやリビングなどに重厚な木の内装がみられます。
 
この建物は、聖路加国際病院の歴史を物語るとともに、築地居留地時代から引き継がれてきた明石町の歴史の一端を伝える貴重な文化財です。

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所在地 東京都中央区京橋3-8(信用金庫会館)

 小原鐵五郎氏は明治32年(1899年)11月1日、東京荏原郡大崎町に生れる。大正10年(1921年)城南信用金庫の前身である大崎信用組合に奉職。爾来、一業専念を信条として”信用金庫一筋”に歩む。永代に亘り全国信用金庫協会及び全国信用金庫連合会の会長として業界の発展に尽瘁、昭和62年(1987年)春の叙勲に於て、我が国の庶民金融並びに広く産業経済の発展に尽くした功績により、勲一等を親授せらる。

 ここに同氏の栄誉を祝して、全国455信用金庫が相集い永久にその功績を顕彰し敬慕の念を後世に伝えんとして、この寿像を建立す。

   昭和62年(1987年)11月1日 全国信用金庫一同

  <小原鐵五郎の名言>

工員服に油がしみ込んでいるような工場主、いかにも質素な商店主、こういう人たちを金融機関が大切にしないと日本は滅びます。本当ですよ。

所在地 東京都中央区日本橋浜町2丁目

 本堂は昭和20年(1945年)3月10日の戦災に依り死没せる幾多の霊の冥福を祈る為建立す。

   昭和25年(1950年)12月  発願主 新田新作

 所在地 中央区日本橋浜町2・3 ~ 江東区

  新大橋の由来

 新大橋は、元禄6年(1693)12月7日に現在地よりやや下流に、はじめて木の橋が架けられた。
 両国橋が、万治2年(1659)に架けられて、その当時「大橋」と呼ばれていたので、 その下流に新しく架けられたこの橋を「新大橋」と称した。
 その頃、新大橋近くの深川に住んでいた俳人松尾芭蕉は、新大橋架橋を喜んで次の句をよんだ。

  初雪やかけがかりたる橋の上 

  有難やいただいて踏む橋の霜




 以来、新大橋はたびたび架けかえられたが、明治45年(1912)2月19日、現在位置に鉄橋の新大橋が誕生した。
 この鉄の橋は、関東大震災(1923)および太平洋戦争の大空襲(1945)にも耐え、橋上において多くの人の命が助かったため、「人助けの橋」といわれるようになった。
 その鉄橋は、六十有余年の間、道路橋としての使命を十分に果たして、昭和52年(1977)3月27日、現在の橋に架けかえられた。
 なお、その鉄橋の一部は、愛知県犬山市の「明治村」に保存されている。





 

 新大橋西詰には『震災避難記念碑』、『人助け橋の云われ碑』があります。

 所在地 【丸久】 中央区佃1

 所在地 【田中屋】 中央区佃1

所在地 【天安】 中央区佃1

 

 佃の名は、江戸幕府開府の天正末年ごろ、大阪近郊の佃村から移り住んだ漁民たちの島、佃島に由来する。江戸の海で取れる白魚を将軍に献上し、余りを佃煮にした。ゆえにこの地が佃煮発祥の地となる。 

所在地 中央区佃1丁目

 佃堀(佃川支流)は、江戸時代の埋め立てで残された東西の佃島間と、人足寄場として利用された石川島との間に残された運河の名残りです。この堀に架かる朱塗りの佃小橋の下には、住吉神社の大祭で使う幟(のぼり)を支える抱木(だき)と棹(さお)が埋められており、大祭前に掘り出されます。

 佃川は明治26年(1893年)に、月島を埋め立て造成したときに形成されました。幅50m程の運河でしたが、佃大橋を架ける際に埋め立てられ、現在は道路になっています。

 所在地 中央区佃1丁目 明石町 湊3丁目

 佃(つくだ)の名は、江戸開府の天正末年ごろ、大阪近郊の佃村から移り住んだ漁民たちの島、佃島に由来する。江戸の海でとれる白魚を将軍に献上し、余りを佃煮にした、ということも有名である。住吉神社もまた、大阪南部の住吉の大神を勧請(かんじょう)したものである。



 佃島対岸の湊町・明石町は、江戸下町の中心の一つで、諸大名屋敷や蔵屋敷調練場などがあり、また江戸の港のあったところでもある。維新後は外国人たちの住む居留地になった時期もあるところで、クリスマスなども最初にここでおこなわれたといわれている。また洋学・ミッションスクール発祥の地でもある。昭和39年(1964)に、この大橋が完成したが、それまではここに”佃の渡し”があった。隅田川では最後まで残った渡し(都営)であった。
 昭和59年(1984)3月 東京都

所在地 中央区新川2丁目 湊1丁目

 亀島川は、日本橋川から分かれ、隅田川へ合流する全長1kmほどの川です。この川の上流端には日本橋水門(1971年完成)が、下流端には亀島川水門(1968年完成)があります。高潮あるいは津波時には、両水門を閉鎖して亀島川流域住民の生命・財産を守ります。

所在地 中央区佃1-11

 石川島の灯台は慶応2年(1866)、石川島人足寄場奉行清水純畸が、隅田河口や品川沖航行の船舶のため、油絞りの益金を割き、人足の手で寄場南端に常夜灯を築かせたもので六角二層の堂々たる灯台であった。
 この完成を最も喜んだのは近在漁師であった。
 このたび佃公園を整備するにあたり、モニュメントとして灯台を建設するとともに、護岸前面に安藤広重の浮世絵をレリーフしたものを3題設置して往時をしのぼうとするものである。

所在地 中央区佃1-1-14 

 住吉神社
  東京下町 八社福参り 交通安全

【 御祭神 】
底筒之男命そこつつのおのみこと(住吉三神)
中筒之男命なかつつのおのみこと(住吉三神)
表筒之男命うわつつのおのみこと(住吉三神)
息長足姫命おきながたらしひめのみこと(神功皇后)
東照御親命あずまてるみおやのみこと(徳川家康公)

【 例祭 】 
8月6日

 『西の海阿波伎の原の潮路より顕われ出でし住之江の神』とト部兼直の和歌にあるように住吉大神は、遠き神代の昔、筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原に於いて顕われた伊邪那岐大神の御子、底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命の三柱の神です。
  
神功皇后三韓征伐の際、皇后自ら御神祭をなさり住吉三神の御守護により無事達成なさりました。その帰途、摂津国西成郡田蓑島(大阪佃)にお寄りになり住吉三神を遥拝になりました。これが大阪佃の住吉の社(田蓑神社)の起源です。
 遥か後、天正年間に徳川家康公が摂津の多田の廊に参詣の時、田蓑島(大阪市西淀川区佃町)の漁夫達が漁船をもって神崎川の渡船を勤めた由縁で家康公がこの島の住吉の社(田蓑神社)にも参詣し、家康公の漁業傍ら田も作れとの事で、村名を田蓑から佃に改めました。
 天正18年(1590)家康公が関東下降の際、家康公の命により摂津国佃の漁夫33人と住吉の社(田蓑神社)の神職平岡正大夫の弟、権大夫好次が分神霊を奉戴して江戸に下り。安藤対馬守、石川大隅守等の邸内に一時安置していたが、寛永年間に幕府より鉄砲洲向いの干潟(三角州)百聞四方を賜り、築島工事を起こし、正保2年(1645年)に竣工し、本国の村名を取って佃島と名付け、住吉明神の社地を定めて、正保3年(1646年)6月29日、住吉三神、神功皇后、徳川家康公の御霊を奉遷祭祀しました。これが佃住吉神社の起こりです。
 佃島は江戸湊の入り口に位置し、海運業、各問屋組合をはじめ多くの人々から海上安全、渡航安全の守護神として信仰を集めました。
 その後、月島、勝どき、豊海、晴海と埋め立てが行われ、その地域の産土神(氏神)として信仰されています。

 住吉神社境内には『陶製扁額』、『水盤舎』、『五世川柳 水谷緑亭句碑』があります。

所在地 中央区佃1-1-14 (住吉神社)

中央区民文化財
 住吉神社の水盤舎

 住吉神社は江戸初期に、摂津国西都郡(大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、天保3年(1646年)に現在地に創建された佃島の鎮守です。
 当社は、創建以来、佃島の鎮護のみならず、水運関係の人々から厚い信仰を受けてにぎわいました。
 水盤舎(おみずや)は欅(けやき)材の切妻(きりづま)造、瓦葺きの建物です。明治2年(1869年)に再建され、明治44年(1911年)に改築されました。水盤舎の欄間は、明治2年(1869年)再建時のものを使ったと推定されています。欄間の正面には石川島の灯台佃の渡し、側面には帆をはった回船や網をうつ小舟、背面には磯の景色、また内側にも潮干狩など、佃島の風景が彫られています。
 
石造の水盤には『天保12年(1841年)白子組』と見え、木綿問屋組合が寄進したものです。
 水盤舎は、中央区民文化財に登録されています。
  中央区教育委員会

所在地 中央区佃1-1-14 (住吉神社)

 水谷緑亭(1787~1858)は、南茅場町(現在の日本橋茅場町1丁目)に生まれ、本名を金蔵といいました。幼い時に父を亡くし、佃島の漁師太平次に養われ、佃島の名手をつとめたと伝えられています。また、養父母に孝養を尽くし、佃島の風俗を矯正した功績などにより、町奉行所から三度にわたり褒章を受けました。
 文化年間(1804~1818)初めに二世川柳柄井弥惣右衛門の門に入り、川柳を学び、腥斎佃(なまぐさいたつくり)と号しています。二世没後は四世川柳人見周助に学び、天保8年(1837年)50歳の時に五世川柳を継承しました。
 五世嗣号の翌年には、初世川柳以来続いた『誹風柳多留』が、167編で刊行を終えますが、天保12年(1841年)から『新編柳多留』を刊行し、嘉永2年(1849年)の終刊まで55編を数えました。緑亭は、この間に川柳の式法を作り、晩年に『柳風狂句』と名付けています。
 編著には『狂句百味篳筒』をはじめ『住吉社奉額狂句会』等があります。文筆業に長じ、川柳とは別に著作も多く、『遊仙沓春雨草子』『祥瑞白菊物語』などの草双紙や、『俳人百家撰』などの伝記物等も著しています。
 この句碑は、昭和41年(1966年)11月に佃の人々によって建立されたもので、
 『 和らかで かたく持ちたし 人ごころ 』
と緑亭の句が刻まれています。
  中央区教育委員会

所在地 中央区月島3-4-11

 月島観音堂の地は、今から50年の昔、この地の篤志家柴崎家(仙台輔氏)のご芳志により寄進を受けたものである。

 ご本尊は、当地の長谷川高次郎氏秘蔵の観世音菩薩を信州善光寺大本願に於いて入魂した上で、一光三尊如来と共に下附されこれを本堂に安置し、本誓殿の称号を授与され、爾来講中の世話人心をこめて守護し今日に至っているものである。

 この堂に参詣するもの、いつの間にか運が開けあらゆる念願が成就すると言われ、その中でも、失せものが見つかり、病気の平癒には極めて霊顕あらかたなるものありとの話が伝わり月島開運観世音の名は一層高まっている。

【 灯篭流し供養 】  7月17日 

所在地 東京都中央区日本橋浜町2-57先 新大橋西詰

 大正12年(1923年)9月1日、突如として起った関東大震災は随所で火災を誘発し、そのため各所で橋が焼け落ち多数の痛ましい犠牲者を出した。しかし幸いにも明治45年(1912年)に建造された新大橋だけは火災からまぬかれ、逃げ惑う1万有余の尊い生命を救い、かつ、遮断された各方面への交通を一手に引受けて、避難橋としての重責を十分に果たした。そのため、新大橋は多くの人々から「人助け橋」と呼ばれ永く親しまれるようになった。

 なお、当時久松警察署の新大橋西詰派出所に勤務する羽鳥源作、三村光、今給惣克巳、植木機禅、伊藤盛雄、浅見武雄ら各警察官は一致協力して多数の避難者を誘導し、さらに携行してきた荷物を橋詰で適切にさばいて火災の防止と避難路の確保のために活躍されたという。一身を顧みず沈着勇敢に行動されたその功績は、永く後世に称えられるべきものである。
 昭和52年(1977年)3月27日  東京都建設局


                                 第4期歌舞伎座

 所在 東京都中央区銀座4-12

 
                             第4期歌舞伎座(夜景)

 第4期歌舞伎座は、平成22年(2010)4月30日の閉場式をもって121年の歴史を閉じました。現在建築中の第5期歌舞伎座は2013年春の完成を予定しています。


第4期歌舞伎座の舞台檜板 < 永山不動産株式会社 所蔵 >

 

所在地 中央区佃1丁目

 住吉水門は、佃堀(佃川支流)が隅田川に合流する地点にあり、1965年に完成しました。通常時は、船舶が通航するために開放していますが、高潮あるいは津波時には、周りの月島水門、浜離宮水門などとともに閉鎖され、佃、月島等の防潮堤で囲まれた地域の住民の生命・財産を守ります。

 住吉水門、月島川水門は建設局が、浜前水門、朝潮水門、佃水門は港湾局が管理しています。

 

所在地 中央区八重洲1-2-5 日本橋西河岸地蔵寺協会

 (中央区民有形文化財)

 大正4年(1915年)3月、本郷座で泉鏡花原作「日本橋」初演のおり、当時21歳の無名であった新派の俳優、花柳章太郎は、お千世の役を熱望し、劇と縁の深い西河岸地蔵堂{昭和24年(1949年)、日本橋西河岸地蔵寺協会となる}に祈願をしました。「日本橋」は檜物町(現、日本橋3丁目、八重洲1丁目)の花街を舞台とした、いわゆる日本橋芸者の物語で、お千世は登場する芸妓のひとりでした。章太郎は、この劇でお千世役に起用されて好演し、これが出世役となりました。

 ここに所蔵される「お千世の図額」は、二度目のお千世役である昭和13年(1938年)の明治座上演の際に、章太郎が奉納したものです。この絵を描いた小村雪岱は、「日本橋」の本の装丁や挿絵も担当した日本画家で、図額には章太郎と鏡花の句も添えられています。この「お千世の図額」は、地域にもゆかりの深いものとして、中央区民有形文化財に登録されています。

 

所在地 中央区新川1-8-17

 新川大神宮の由来は、伊勢内宮の社僧慶光院所蔵古文書『慶光院由緒』並に江戸名所図絵に詳しい。

 当宮は慶光院周清上人が寛永2年(1625年) 徳川二代将軍から江戸代官町に屋敷を賜り、邸内に伊勢両宮の遙拝所を設けられたのに始まり、其後明暦3年(1657年)江戸の大火で類焼したので、この年替地を霊岸島に賜り社殿を造営、以来実に三百年を経た。

 爾来当地は河村瑞賢が隅田川に通ずる水路を開いて舟揖の便に利するに至って新川と称し、当宮を中心として酒問屋櫛比し殷賑を極め今日に至るまで酒類の一大市場となった。

 当宮は夙に当地産土神として庶民の崇敬を聚め、特に酒問屋の信仰篤く、毎年新酒が着くとこれが初穂を神前に献じ、然る後初めて販売に供した。

 明治維新により幕府の庇護が絶えてからは専ら酒問屋の守護神として崇敬厚く奉齋し来ったが、昭和20年(1945年)3月9日の戦災にに罹り社殿を烏有に帰した。

 その後、新川も戦災焦土で埋め旧態を失ったが、再び往時の繁栄を恢復しつつあるのは全く当宮御神威の賜ものである。

 隅々昭和27年(1952年)が講和条約発効独立恢復の年に当る故を以って、酒問屋有志は深く当宮の御神徳を景仰し感激措く能わず、即ち社殿の再建を発起し、洽く協賛を全国同業者に求めて同年5月7日地鎮祭、9月5日上棟祭、10月17日竣工遷宮並に例大祭を執行、聊か神慮に応え奉り、敬神崇祖の微衷を捧げた次第である。

 茲に当宮再建の由来を記し、同業協賛の美挙を載せて後世に伝えるものである。

       昭和27年(1952年)10月17日

所在地 東京都中央区佃2

 1986年に着工、2000年に完成した超高層住宅で、石川島播磨重工業㈱の工場跡地を中心に、隅田川沿いの堤防・遊歩道、公園・緑地、学校、住宅を含めて再開発されたものです。隣接する下町情緒のまち並みと見事なコントラストを見せてくれます。

 数多くのテレビドラマにおいて、新川からリバーシティ21をバックに撮影されています。 

 
 



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