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東京都中央区の歴史
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所在地 中央区銀座8-8~10付近

 ここの南方、高速道路の下には、もと汐留川が流れ、中央通り(旧東海道)には、昭和39年(1964年)まで新橋が架かっていました。

 宝永7年(1710年)、朝鮮の聘使(へいし)の来朝に備えて、新井白石の建策にもとづきわが国の威光を顕示(けんじ)するため、この新橋の北詰に、現に外桜田門に見られるような城門が建設されて、芝口御門と呼ばれ、新橋は芝口橋と改称されました。

 城門は橋の北詰を石垣で囲って枡形(ますがた)とし、橋のたもとの冠木門(かぶきもん)から枡形(ますがた)に入って右に曲ると、渡櫓(わたりやぐら)があって堅固な門扉が設けられていました。しかしこの芝口御門は建築後15年目の享保9年(1724年)正月に焼失して以来、再建されず、石垣も撤去され、芝口橋は新橋の旧称に復しました。

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所在地 中央区銀座5-13-9~14付近

 江戸幕府の奥絵師(おくえし)であった狩野四家は、いずれも狩野探幽(たんゆう)(守信)、尚信(なおのぶ)、安信の三兄弟を祖とし、鍛冶橋・木挽町・中橋の三家と木挽町の分家浜町と、四家全て区内に拝領屋敷がありました。

 木挽町狩野家の祖、仮の尚信は寛永7年(1630年)に江戸に召し出され、竹川町(銀座7丁目)に屋敷を拝領して奥絵師になりました。のち、安永6年(1777年)6代典信(みちのぶ)(栄川)の時に、老中田沼意次(おきつぐ)の知遇を得て、木挽町の田沼邸の西南角にあたるこの地に移って、画塾を開きました。

 奥絵師四家のなかでもっとも繁栄した木挽町狩野家は、諸大名などからの制作画の依頼も多く、門人もまた集まりました。門人のほとんどは諸侯のお抱え絵師の子弟で、14、5歳で入門し、10年以上の修行を要しました。修業を了えた者は師の名前から一字を与えられて、絵師として一家を成す資格を持つといわれました。

 この狩野画塾からは、多くの絵師が輩出しましたが、明治の近代日本画壇に大きな貢献をした狩野芳崖や橋本雅邦はともに、木挽町狩野最後の雅信(うたのぶ)(勝川)の門下生です。

      平成9年(1997年)3月 中央区教育委員会

所在地 中央区銀座6-10

 明治8年(1875年)、この地に商法講習所を開設する。

 これ現在の一橋大学の発端なり。

所在地 中央区銀座5-1-1(数寄屋橋公園)

 寛永6年(1629年)江戸城外廊見附として数寄屋橋が初めて架けられた時は幅四間長三間の木橋であった。

 橋名は幕府の数寄屋役人の公宅が門外にあったのに依るという見附の城門枡形は維新の際に撤去され ついで大正大震災(1923年)後の復興計画によって完成を見た近代的美観を誇る石橋が銀座の入口を扼することヽなった。

 爾来30年首都交通の激増はこの界隈を更に変貌させた外壕上を高架車道が地下には地下鉄が走るようになって橋も姿を消し こヽは渾然たる大銀座の一劃となった 本会は茲に旧橋の遺材を以て碑を建て感慨深い東京文化の変遷を偲ぶよすがとした。

  1959年4月 数寄屋橋公園美化協力会

 

 (碑前面)

     数寄屋橋  此処に  ありき

                      東田一圭

所在地 中央区銀座6-6-7先 朝日ビル前

京橋の 瀧山町の 新聞社
  灯ともる頃の いそがしさかな 
啄木

 石川啄木が朝日新聞社に勤務したのは、明治42年(1909年)3月から明治45年(1912年)4月13日、27歳でこの世を去るまでの約3年間である。この間彼は佐藤真一編集長をはじめとする朝日の上司や同僚の厚意と恩情にまもられて、歌集『一還の砂』、『悲しき玩具』、詩集『呼子と口笛』など多くの名作を残し、庶民の生活の哀歓を歌うとともに時代閉塞の現状を批判した。
 
銀座の人びとが啄木没後60年を記念して朝日新聞社跡に歌碑を建立したのはこの由緒によるものである。
  
昭和48年(1973年)4月1日
    
日本大学教授 文学博士 岩城之徳

所在地 中央区銀座6-17-1(元日産自動車本社・現読売新聞社)

 明治維新の国是をふまえ、欧米諸国の制度文物を採り入れ、時の産業界の指導者が相携えて、明治11年(1878年)3月12日、商工業発展のための総合的団体として東京商法会議所(東京商工会議所の前身)を創立しその事務所を置いたのがこの地である。

 ここには明治24年(1891年)以来、農商務省、次いで商工省が昭和18年(1943年)まで所在し、明治、大正、昭和の三世代にわたって、日本産業発展のための官民協力の場ともいうべきところとなった。

 昭和53年(1978年)3月12日、東京商工会議所創立100周年にあたり、ここに記念碑を建てて後世に残すものである。

     東京商工会議所会頭 永野重雄



所在地 中央区築地6-20-37

 (中央区民文化財) 獅子頭・天水鉢

 波除稲荷神社の起立は万治年間(1658~1661)といわれています。当時、築地一帯の埋立てに際し、堤防がたびたび波に崩されて工事が難行していました。ある日、海中に漂う稲荷神の像をみつけ、これを祀ったところ、風も波もおさまり、工事が無事完了したと伝えられています。「波除」という尊称もこの伝説に由来するものです。

 以来、厄除や航海安全の神として、人々に厚く信仰され、祭りでは数多くの獅子頭が町をねりあるき、獅子祭りと呼ばれていました。今でも三年に一度、六月に行われる例大祭では、嘉永元年(1848年)に作られた獅子頭が築地周辺をねりあるき、その伝統を伝えています。

 江戸時代、築地の南側には尾張徳川家の蔵屋敷があり、社殿前の天水鉢は、そこで船から荷物を陸揚げする小揚(こあげ)の人たちから奉納されたもので、獅子頭とともに中央区民文化財に登録されています。

所在地 中央区築地5-2-1(東京都中央卸売市場)

 江戸時代中期の陸奥白河藩主松平定信は老中の職にあって寛政の改革(1787~1793)で幕政の建て直しを行ったが、老後には将軍よりこの地を与えられた。当時この地は江戸湾に臨み風光明媚で林泉の美に富み、浴恩園と名付けて好んだという。

 明治維新以後この地は海軍省用地となり、海軍学校、海軍病院などを設置して著しく園池の風景を変えた。さらに、大正12年(1923年)12月、日本橋にあった魚市場(俗に魚河岸)がこの地に移転して来るに及んで、かつての浴恩園の面影はまったく消滅し、現在は東京都中央卸売市場が設置されている。

所在地 中央区佃 ~ 江東区

  相生橋
 佃島が埋立てられて月島となって、人々が住む町が開けるとともに、交通の便や、水道が必要になった。そこでまず、深川との間にこの相生橋が架けられた。明治36年(1903)のことであった。その後改修され、中ノ島で、大橋と小橋とに分かれるようになった。
 隅田川が、ここで左右に、大きく分岐するところの左側にあたっていて、川が湾曲するため、上流から流れてきたものが滞留したところである。関東大震災の時も、今次の大戦の空襲のあとにも、さまざまなものが山のように集まった。
 ことに震災の時までは木橋であったため、橋も延焼した。現在の橋は、大正15年(1926)11月に、震災復興事業の最初の架橋として完成した。
 昭和59年(1984)3月 東京都



 1926年に架けられた橋は、1999年にトラス橋に架け替えられました。

所在地 中央区勝どき1丁目 月島3丁目

 江戸・東京の水上交通の大動脈であった隅田川は、今から100年程前、年々堆積する土砂により、船舶の往来が困難となった。

 そのため、明治20年(1887年)東京府は、隅田川の浚渫を始め、その土砂で埋立造成されたのが、現在の月島である。

 明治25年(1892年)に月島1号地(現月島)、明治27年(1894)に月島2号地(現勝どき)、明治29年(1896年)に新佃島(現佃3丁目)が、次々に誕生した。この1号地と2号地の間の月島川に架かる橋の一つが、西仲橋である。

 中央区では平成4年度に、かつて海であった月島をイメージさせるため、江戸湊の波を浮世絵風に表現した高欄等の整備をし、橋全体として美しい波形を描き出している。

 西仲橋は、人々が集い、語り合い、ふれあうことができる、月島の新しいシンボルとして生まれ変わり、歴史と文化を後世に伝えるためのかけ橋となるものである。

 

形式 三径間鋼ゲルバー桁橋

橋長 43.2m

有効幅員 11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2)

建設年次 昭和31年(1956年)5月

施工主 東京都

所在地 中央区佃1-11 (区立佃公園) 

<中央区平和都市宣言>

いまいちどたちどまり 平和の尊さをみつめよう

ささやかな幸せも こよなき繁栄も

平和の光が消えたなら すべてが失われる

私たちの手にあるこの輝きを

       明日の世代に伝えよう

1988年3月15日、この日私たちは永遠の平和を願い中央区が平和都市であることを宣言する。

所在地 中央区築地7-19 (区立あかつき公園)

 

<太陽のまち中央区宣言>

~福祉と健康とスポーツのまちをめざして~

思いやり 助け合い 心がふれあう 幸せなまち

互いに心と体をきたえ 健やかに いきいき くらすまち

光輝く あの太陽のように 明るく あたたかく たくましく

あすへの希望に満ち満ちた

そんなわがまち 中央区  

1990年4月1日



所在地 中央区日本橋浜町2-59 (区立浜町公園)

 

<花の都中央区宣言>

緑をはぐくみ 花をいつくしみ

生きとし生ける生命を尊ぶ

美しいまち 清潔なまち

思いやりと 人情あふれるまち 中央区

そんなほっとするまちにしたい

だからいま 

花の都中央区宣言

それは ひとつぶの種

小さなひとつぶが

やがてまちいっぱいに

大輪の花を咲かせる

そんな願いをこめて

平成元年(1989年)4月1日



所在地 中央区明石町11 (区立築地川公園)

所在地 中央区新川2丁目 中央区佃2丁目

 1993年に、佃大橋永代橋との間に新しく架けられた橋です。高層ビルが立ち並ぶ近代的な街並として生まれ変わった佃地区と都心を結ぶ橋として計画されました。形式は近代的な街並にマッチし、地域のシンボルとしての役割を果たすように、タワーを有した斜張橋となっています。隅田川とセーヌ川の友好河川提携を記念して、パリ市の協力によりフランスの彫刻家オシップ・ザッキンが製作したモニュメント「メッセンジャー」像が設置されています。

 

 

 

所在地 中央区湊3-18先

 (中央区民文化財)

 佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲である。徳川初代将軍家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区佃町)の漁師を招いて住まわせたところという。この島と対岸の佃大橋西詰付近との間を通ったのが佃の渡しである。

 明治9年(1876年)7月には、渡し銭1人5厘の掲示札の下付を願い出ている。大正15年(1926年)東京市の運営に移り、昭和2年(1927年)3月、無賃の曳船渡船となった。この石碑は、この時に建てられたものである。

 昭和30年(1955年)7月に1日70往復となったが、昭和39年(1964年)8月、佃大橋の完成によって廃止された。

 渡船の歴史を記念する区民史跡として、中央区民文化財に登録されている。

 

 

 

     平成12年(2000年)3月 中央区教育委員会

所在地 中央区佃1-9-6

 江戸時代の中期、正徳5年(1715年)~元文3年(1738年)に在住された上野寛永寺崇徳院宮法親王が地蔵菩薩と厚く信仰され、自ら地蔵尊像を描き江戸府内の寺院にたまわり、地蔵尊造立と促されたと伝えられています。

 享保8年(1723年)寛永寺の宮様、大明院宮崇徳院宮、随宜楽院宮の三代にわたり、律院建立と熱願されたことから、寛永寺第六世輪王寺宮の推挙を得て、比叡山に安楽律院、日光山に興運律院、上野東叡山に浄名律院が建立され、その浄名律院(現在、浄名院)建立の際、山内に地蔵尊像と描かれた崇徳院宮法親王が、松をお手植えされたので、地蔵寺といわれるやにも伝えられていますが、浄名院第三十八世に地蔵比丘(びく)といわれた妙運大和尚が、八萬四千体石地蔵尊建立を発願され、崇徳院宮の描かれた地蔵尊を拝写され全国の信者に賜わったことからとも伝えられています。(八萬四千体とは、仏典に『無量壽仏 有八萬四千相十一相客 有八萬四千随形好・・・』に拠る。)

 妙運大和尚が地蔵比丘といわれる所以は、嘉永3年(1850年)日光山星宮の常観寺に寓した際、地蔵尊信仰の縁ににふれられ一千体の石地蔵建立を発願され爾後、浄名院住職になられ、本格的に八萬四千体建立の大発願をなされたからといわれています。

 佃天台子育地蔵尊には、天台地蔵比丘妙運の刻銘があり、まさしく拝写されたお姿と同じく左手には如意宝珠、右手には錫杖(しゃくじょう)を持たれております。またこの像を平らな自然石に刻まれていることも大変珍しいといわれています。

 この地蔵尊に天台の二文字があることは妙運比丘が天台宗の僧であったから、いや天台宗の教義の一つに『一切衆生悉有仏性=人は本来的に仏である』とあることから、いつの頃かは定かではないですが、こう呼ばれ親しまれてきたのではなかろうかと考えられます。

 この佃天台子育地蔵尊は、頑是ない子供衆の様々なことを、御守護下さる本願がおありになりますと同時に長壽延命・家内安全・諸願成就の地蔵尊といわれていることから古くから佃島の人々はもちろんのこと多くの人々に信仰され今日に至っております。

所在地 中央区佃1-1-14 (住吉神社) 

中央区民文化財
 住吉神社の陶製扁額

 住吉神社は江戸初期に、摂津国西都郡(大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、天保3年(1646年)に現在地に創建された佃島の鎮守です。
 当社は、創建以来、佃島の鎮護のみならず、水運関係の人々から厚い信仰を受けてにぎわいました。

 正面鳥居の上にある扁額は、珍しい陶製で、白地に呉須で額字や雲文を染付けています。明治15年(1882年)6月に制作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁(たかひと)親王です。
 陶製扁額は、中央区民文化財に登録されています。
  中央区教育委員会

所在地 中央区佃3-11-19

 ここは明治29年(1896年)に完成した新佃島埋立地の一部で、当時は房総の山々も雲霞のうちに望むことのできた閑静な景勝地でした。

 ここに坪井半蔵氏が建てた下宿旅館「海水館」は、文士、詩人、画家など多くの文化人が下宿しました。

 明治40年(1907年)、島崎藤村が「春」を、翌年には藤村の紹介で、小山内薫が「大川端」を執筆したのを始めとして、大正2~3年(1913~1914)頃には、佐藤惣之助、大村荘八、竹久夢二、三木露風、日夏耿之助、松崎天民、横山健堂等がここに寄宿し、文士たちの集会もしばしば行われたといいます。

 この碑は昭和43年(1968年)、藤村の母校である明治学院大学の藤村研究部によって建てられたもので、裏には「春」の執筆由来の記が記されています。

所在地 中央区佃1-2-10

 劇作家、北条秀司は佃島が好きであった。新派俳優、花柳章太郎も佃島が好きであった。二人はたえず連れ立って、佃島を歩き、大川の渡船を楽しんだ。

 その結晶として、「佃の渡し」の芝居作りを企画した。それが昭和32年(1957年)12月の新橋演舞場に脚光を浴び、劇団新派の財産を一つ殖やし、北条秀司の代表作をまた一つ世に残すことになった。

 所在地 中央区佃2-1・2

 米国ペリー艦隊が来航した嘉永6年(1853年)、幕府の命を受けた水戸藩主徳川斉昭がこの地に石川島造船所を創設した。同造船所は洋式帆装軍艦「旭日丸」をはじめ、日本人によって設計、建造された最初の蒸気軍艦「千代田形」など数多の艦船を次々と建造、造船技術を通じてわが国産業の近代化に大きく貢献した。

 明治維新後の明治9年(1876年)、平野富二によりわが国初の民営洋式造船所として再スタートし、その後明治22年(1889年)には渋沢栄一などの協力により会社組織となり、有限責任石川島造船所、株式会社石川島造船所の社名の下、明示から大正・昭和にかけて、多くの軍艦・商船を世に送り出してきた。この地での造船事業は昭和14年(1939年)造船部門の東京深川区豊洲への移設によって幕を閉じた。

 その後、石川島重工業株式会社、石川島播磨重工業株式会社と社名が変更される中で、当地は日本屈指の重機械類の専門工場として活躍してきたが、昭和54年(1979年)の工場大移転により、その長い歴史を終えた。

 以降この地はウォーターフロント開発として「リバーシティ21」と名付けられました。

 

 

所在地 中央区日本橋人形町5・6・7・17・18番地域

 銀座とは江戸時代の銀貨の製造工場である銀座会所と、通用銀貨の検査や銀地金(じがね)の購入などを扱う銀座役所を総称した組織でした。そしてその経営は幕府の直営ではなく、御用達町人に委託しました。

 江戸の銀座は慶長17年(1612年)に今の銀座2丁目の場所に置かれ、その188年後の寛政12年(1800年)6月に、寛政改革(1787~1793)の一つである銀座制度の大改正のため一旦廃止されました。

 その年の11月、改めてこの人形町の場所に幕府直営の度合いを強めた銀座が再発足しました。

 当時この付近の地名が蛎殻町だったため、この銀座は人々から『蛎殻銀座』と呼ばれ、明治2年(1869年)に新政府の造幣局が設置されるまでの69年間存続しました。

所在地 中央区日本橋本町3-6-2 

 於竹大日如来は、寛永17年(18歳の時)山形県庄内より出て、当時の江戸大伝馬町馬込家の召使いとなる。その行いは何事にも誠実親切で、一粒の米、一切れの野菜も決して粗末にせず貧困者施した。そのため於竹さんのいる勝手元からはいつも後光がさしていたという。出羽の国の行春乗蓮と玄良坊が馬込家をおとづれ

「於竹さんは羽黒山のおつげによると大日如来の化身である。」

とつげた。主人は驚き勝手仕事をやめさせ、持仏堂を造り、その後念仏三昧の道に入る。これが江戸市中に拡がり、於竹さんを拝もうと来る人数知れずと言う。

 於竹さんの詠んだ歌に

『 手と足は いそがしけれど 南無阿弥陀仏 

                   口と心の ひまにまかせて』

延宝8年(1680年)5月この世を去る 行年58

 

 五代将軍綱吉公の母堂桂昌院の歌に

『 ありがたや 光と共に 行く末は

                   花のうてなに 於竹大日 』

 

 於竹さんが愛用し貧困者が市をなしたと言う有名な於竹井戸はこの地にあった。

  昭和46年(1971年)5月吉祥 於竹大日如来保存会

所在地 中央区築地1-12-1

 明治6年(1873年)、平野富二がここに『長崎新塾出張活版製造所』を興し、後に『株式会社東京築地活版製造所』と改称する。

 日本の印刷文化の源泉となった。

所在地 中央区築地3-15-1 築地本願寺

東京都指定文化財 昭和13年(1938)10月指定

 間新六光風(はざましんろくみつかぜ)(1681~1703)は、播磨国(兵庫県)赤穂藩主浅野長矩(ながのり)の家臣、間喜兵衛光延の次男として生れました。元禄15年(1702年)父および兄の十次郎光興とともに、主君、浅野長矩の殿中刃傷(でんちゅうにんじょう)事件の仇討ちに加わり、翌元禄16年(1703年)2月に麻布の毛利邸で切腹し、姉聟(あねむこ)の中堂又助が当寺に葬りました。他の義士と共に、高輪泉岳寺(港区)にも墓石がありますが、新六のみが当寺に葬られたのは、当寺の檀徒であったのか、あるいは、生前の特志によるものであろうといわれています。

 本願寺築地別院(築地本願寺)には、新六が吉良邸討ち入りののち、泉岳寺に引き揚げる途中、自身の供養を願い、槍に書状と金子を結びつけて、当寺内に投げ入れたという伝承が伝えられています。

 この供養塔は、当初のものが、天保5年(1834年)火災にあって焼失したため、羽佐間宗玄が再建したものです。

 平成15年(2003)3月 中央区教育委員会



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