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東京都中央区の歴史
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所在地 中央区銀座4-5-5 ミキモトパールビル

 御木本幸吉翁は本年九十五歳養殖真珠の創始者で真珠王の名は全世界に及んでいる當處南北十間の地は翁の店舗の場所である

  昭和28年(1953年)4月 銀座通聯合会

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所在地 中央区銀座3-14先

 専修大学は、明治13年(1880年)9月16日、ここ東京市京橋区木挽町2丁目14番地に経済及び法律の専修学校として発足したことに始まる。

 創立者は相馬永胤、田尻稲次郎、目賀田種太郎、駒井重格の諸先達で建学の精神は、社会に対する報恩奉仕であり、質実剛健、誠実力行は学風である。



所在地 中央区銀座3-5-16 『グリルスイス』

 昭和23年(1948)、常連の巨人軍の千葉茂さんに、東京・銀座の洋食店グリルスイス店主・庄子静子に、「カレーライスにトンカツをのせてくれ」と頼まれて作ったのが、カツカレーのはじまりです。
 千葉の考案したカツカレーの味を守り続けたい、と語る庄子静子に千葉茂は「伝統は守るもの、歴史はつくるもの。」と話したとのこと。

 

  千葉茂(ちば しげる)
 昭和8年(1933)、松山商業高校に入学、春夏合わせて4度、甲子園に出場した。昭和13年(1938)、巨人に入団。右翼打ちの名人と呼ばれ、一塁を見ずに送球する守備ではファンをうならせた。名二塁手として川上哲治氏や青田昇氏らとともに巨人の第二期黄金時代を築いたスター選手だった。
 昭和31年(1956)の現役引退まで1,512試合に出場。1,605安打、96本塁打、691打点、155盗塁、打率2割8分4厘。昭和33年(1958)に巨人の二軍監督となり、新人の長嶋茂雄選手に背番号3を譲った。
 昭和34年(1959)から近鉄の指揮を執り、近鉄は千葉氏のニックネーム「猛牛」をとって、チーム名称を近鉄パールスから近鉄バファロー(後に近鉄バファローズ)に変更。昭和37年(1962)から野球評論家として活躍し、昭和55年(1980)に野球殿堂入りした。


                                 第4期歌舞伎座

 所在 東京都中央区銀座4-12

 
                             第4期歌舞伎座(夜景)

 第4期歌舞伎座は、平成22年(2010)4月30日の閉場式をもって121年の歴史を閉じました。現在建築中の第5期歌舞伎座は2013年春の完成を予定しています。


第4期歌舞伎座の舞台檜板 < 永山不動産株式会社 所蔵 >

所在地 中央区銀座2,3丁目・中央区築地1丁目

 亀井橋は、明治5年(1872年)2月の銀座大火の後、旧津和野藩主伯爵亀井茲濫の私費にて架設されたと言われ、橋名は架設した亀井氏の名に由来するものと思われます。

 現橋は、昭和3年(1928年)5月帝都復興事業として改築されましたが、下図は、昭和32年(1957年)頃の亀井橋の姿です。亀井橋の下には、かつて築地川が流れていましたが、昭和39年(1964年)の東京オリンピックにあわせて埋め立てられ、高速道路となりました。

 中央区では、平成5年(1993)度に『水の流れを基調とするイメージ』で景観整備しました。

 

<橋梁の緒元>

形式 3径間連続鈑桁橋

橋長 36.2m

有効幅員 15.0m(車道8.0m 歩道3.5m×2)

建設年次 昭和3年(1928年)5月

施工 復興局

 

 

     平成6年(1994年)3月 東京都中央区

 

所在地 中央区銀座・中央区築地・中央区新富

 この橋は、築地川の屈曲した地点に、楓川と結ぶ水路(楓川・築地川連絡運河)が開削され、川が三叉の形となった所に、関東大震災後の復興計画の一環として、昭和4年(1929年)12月に三叉の橋が架けられました。

 ここに川が存在し、人々の暮らしも川を中心に営まれ、川筋を酒荷の船などが通った情緒ある風景も、今は埋立てられ高速道路と化し、陸橋となりました。

 中央区では、平成4,5年にわたり、高欄には水辺に映える木立ちの姿を採り入れ、照明は架設した当時の鈴蘭燈に、又一時期高速道路のランプとなり一部撤去された歩道も復元し、古き風情を感じさせるデザインで修景しました。

     平成5年(1993年)8月 東京都中央区

 橋梁の諸元

形式 三股型単純鋼板桁橋

橋長 23.98m×3

有効幅員 15m(車道9.0m・歩道3.0m×2)

建設年次 昭和4年(1929年)12月 復興局施行

 

所在地 東京都中央区銀座3-8-12

 朝日稲荷神社は古来より当地に鎮座し守護神として厚く奉斎され、遠近の崇敬を集めていた。しkしながら、安政の大地震により社殿倒壊し、三十間堀に幽没して以来、社地は荒廃し浮浪の徒付近に散集して見るかげもなかった。

 大正6年(1917年)、銀座を襲った大海嘯によって、三十間堀より霊体が顕れた。建築業館岡其が当地に奉安したが、関東大震災により転地を余儀なくなくされ、神社は銀座三丁目町会の奉斎するところとなった。町内崇敬者一同神威を畏み奉り、町内守護神として奉斎しようとしたが、当時社地は東京市有地に編入され東京市の管理化にあった。三丁目崇敬者は時の東京市助役を訪ね、社地の下附を懇願したが叶わなかった。しかしながら、土地使用黙許の許可を得、社殿が建立され、社地は整えられた。初午が盛大に祝われ、縁日は四丁目の出世地蔵尊のそれと伍して多くの人々を集めた。こうした町内守護神として広大な神徳を顕わすにいたったが、戦災のため社殿はことごとく烏有に帰した。

 戦後社殿を再建し、昭和27年(1952年)宗教法人朝日稲荷神社となる。以後三丁目町内会によって厚く奉斎され、その神威はいいや増して広文、信心する者にあまねく守護を及ぼしている。

 昭和58年(1983年)、隣地の大広ビル改築にともない、共同ビルを建築するにいたった。ビル一部の1・2階を吹抜け拝殿とし、本殿を屋上に安置したが、パイプにより大地につながり、拝殿での参拝が本殿に届くよう工夫されている。時代に先駆ける銀座の地にふさわしい神社となった。

 毎年初午に盛大に祭を催しまた、大銀座まつりの際は銀座八丁神社巡りの札所として、銀座三丁目にとどまらず、多くの人々の崇敬を集めている。

 商業の神として商売繁盛はもとより、当地に鎮座して以来火災なく、また縁結び、家内円満にもその神威はとどまるところを知らない。

     昭和63年(1988年) 銀座三丁目会

所在地 東京都中央区銀座4-4-2先

 明治14年(1881年)男爵高水兼寛英国医学教授ノ目的ヲモッテコノ地ニ成医会講習所ヲ開設ス

 コレ東京慈恵会医科大学ノ濫觴ナリ

 創立百年ヲ記念シコノ碑ヲ建ツ

     昭和55年(1980年)5月1日 第7代学長 名取禮二 

所在地 中央区銀座 (東京メトロ銀座駅)

 早川徳次(のりつぐ)氏(1881~1942)は明治14年(1871年)年山梨県に生まれ。

 帝都高速度交通営団の前身である東京地下鉄道株式会社を創設、幾多の困難を克服する。

 昭和2年(1927年)12月30日アジアで最初の地下鉄 浅草~上野間(2.2km)開業させ、引き続いて銀座へ新橋へとレールを伸ばし、今日に見る地下鉄時代の礎を築きました。

所在地 中央区銀座 東京メトロ銀座駅

     銀座線A口D口、丸の内線C口、日比谷線中央口

 彫刻家  笠置秀男氏が『出入り口の表示としての、モニュマン性を備えることは無論のこと、地下鉄のシンボルともなり、次第に伸び行く若者達の希望に燃えた感情を表現したものにしたい』ということからギリシャ神話に出てくるスピードと商業の代表者「マーキュリー」という題材に結びついたそうです。

 昭和26年(1951年)銀座4丁目交差点の回りに設けられた地下鉄出入り口の上屋の軒先に登場、世の人々に歓迎され非常に評判を呼びましたが昭和39年(1964年)銀座総合駅開業時に現所(銀座線A口D口、丸の内線C口、日比谷線中央口)に移設、今日に至っております。

所在地 東京都中央区銀座4-1-2(数寄屋橋公園)

  昭和26年(1951年)7月、「銀座フェアー」と「矯正保護キャンペーン」を通じて、犯罪の防止と犯罪をした人たちの立ち直りには、一般市民の理解と協力が不可欠であるという認識を深めた法務府(現在の法務省)は、この啓発活動を将来とも継続して一層発展させる必要があるとして、“社会を明るくする運動”と名付け、国民運動として世に広げることにしました。

 この度、中央区の保護司会と更正保護女性会が創立50周年・30周年を記念して、この運動の意義と理念を新しい世代に伝え、平和で明るい社会の実現を祈念して、「社会を明るくする運動」発祥の地銀座に記念碑を建てました。

 平成16年(2004年)1月 
       中央区保護司会 中央区更正保護女性会

 

<銀座フェアー>

 昭和24年(1949年)7月1日、「犯罪をした者の改善及び更生を助け…、もって、社会を保護し、個人および公共の福祉を増進する」ことを目的とした「犯罪者予防更生法」という更生保護制度の基本法が施行されました。

 これによって更生保護制度が新しくスタートしましたが、戦後の荒廃した中にあって、かねてから街にあふれた子供たちの将来を危惧していた東京・銀座の商店街の有志が、この法律の思想に共鳴し、保護少年のためのサマースクールの開設資金の造成などを目的に、自発的に同年7月13日から1週間にわたって「犯罪者予防更生法実施記念フェアー(銀座フェアー)」を開催しました。

<矯正保護キャンペーン>

 銀座フェアーが刺激となり、また犯罪者予防更生法施行1周年を記念して、その翌年の昭和25年(1950年)7月1日~10日まで、「矯正保護キャンペーン」が全国的に実施されました。

 このキャンペーン期間中に、前年の銀座フェアーに示された一般市民の熱意と善意を高く評価して、保護司全国協議会、映画会、記念スタンプ、リーフレットの配布、街頭宣伝活動などの啓発活動が全国的に実施されました。

 街にあふれる戦災孤児、犯罪や非行の激増による社会不安の増大、インフレや物資不足で余裕のない生活の人々にとって、不幸な少年に対する思いやりや愛の心を呼び戻し、殺伐とした世相に明るい光をともしたとも言われています。

所在地 東京都中央区銀座8-4-5

 八官神社の創建は定かではない。明治2年(1869年)焼失するもが明治5年(1871年)再建される。昭和12年(1937年)鉄筋コンクリート造りとなり。
 昭和57年(1982年)にはビル化する。

 八官神社は宝くじにご利益があるとのことで、宝くじ購入前に立ち寄る人も多い。

所在地 東京都中央区銀座8-11先

 三十間堀は京橋川から汐留川にいたる横堀川でした。

 慶長17年(1612年)江戸の船入堀(ふないりぼり)を整備するため、西国大名に開削工事を命じて完成しました。堀幅が三十間あったために三十間堀と呼ばれました。文政11年(1828年)に幅を十九間に狭めたといわれています。

 江戸時代初期の『寛永江戸図』に三十間堀と見え、堀の南側は紀伊徳川家をはじめ、京極(きょうごく)、加藤、松平などの諸大名の屋敷が並んでいました。延宝年間(1673~1681)の図では西岸は三十間堀町1~8丁目、東岸は木挽(こびき)町1~7丁目で、河岸場があり、舟運の荷物の揚げ場でした。

 幕末から明治時代にかけて、船宿が並んで屋形船や屋根船が往来し、明治34年(1901年)の『新撰東京名所図会』にも、その賑わいの様子が描かれています。

 明治17年(1884年)、三十間堀には真福寺橋、豊蔵橋、紀伊国橋、豊玉橋、朝日橋、三原橋、木挽橋、出雲橋等多くの橋が架けられていました。

 三十間堀は戦後、灰燼(はいじん)の山を処理するために、昭和23年(1948年)から埋立てが始まり、昭和27年(1952年)7月に完了したあとは次第に商店やオフィスなどの立ち並ぶ街になりました。

      平成10年(1998年)3月 中央区教育委員会

 積み上げられた五個の築石は、三十間堀のもので、中央区銀座8-12-9護岸より発掘されたものです。

 上の石は、焼く1.5tあり銀座8-10-4、旧料亭蜂龍跡地から発掘されたもので、此所は江戸名所図絵にも描かれ、今日の信楽通りの源である「信楽茶屋」跡と云い伝えられております。

 

所在地 東京都中央区銀座5-1-1(数寄屋橋公園)

岡本太郎作 昭和41年(1966年)建立

 数寄屋橋ライオンズクラブの結成記念として岡本太郎氏に製作を依頼。「太陽の塔」の小型版である。

 時計はシチズン製

 

 

<寄贈>

銀座ライオンズクラブ

数寄屋橋ライオンズクラブ

 

<協賛>

三井建設㈱

シチズン時計㈱

日本軽金属㈱

熊取谷石杙工業㈱

㈱阪急百貨店

朝日麦酒㈱

東芝商事㈱

所在地 東京都中央区銀座5-9-19 (銀座あづま通り)

 ご祭神 倉稲魂命

 戦後メインストリートとして発展した あづま通り・三原小路に火災が続発し町内の者も不思議に思い調査の結果 この一角にお稲荷さんが祀られていたことが判明 そこで町内一同相談の上 京都伏見稲荷講中をつくり あづま稲荷大明神と命名 京都伏見稲荷大社にお参りし御霊を頂き 氏神様 山王日枝神社に御祈祷をを願い三原小路の方々の格別の御芳志により現在地に鎮座し盛大にお祀りを致しましたところ以後全く火事にあわず 霊験あらかたに今日に至っております

 年一回 初午の日に大祭を斉行し街の発展と火防・盗難守護の祈願いたしております。
   
あづま稲荷神社

 
 <あづま稲荷奉納者名>
今井家 龍善堂 若松 大和屋 丸江藤屋 松坂屋銀座店 京や ギンザコア連合会 三松 新富鮨 新松 清月堂 世きね

戦後、この辺りで火災が相次いだことがあり、調べた結果かつてこの一角にお稲荷さんが祀られていたことが判明。そこで京都伏見稲荷講中を作り、あづま稲荷大明神と命名し、勧請したところ、以後全く火災にあわなくなり、今日に至る。

所在地 東京都中央区銀座1-7先

 銀座の柳は明治20年(1887年)ごろ銀座通りに植えられて以来大正9年(1920年)撤去昭和6年(1931年)復活の変転を経ながら数多くの詩歌にうたわれ人々に親しまれてきた銀座のシンボルとなった柳も樹勢の衰えもあって昭和43年(1968年)歩道の大改修に当たり移植の止むなきに至った。

 いまふたたびこの通り一帯に柳を迎えて「銀座柳通り」と名づけるに際し永く銀座の柳の由来を伝えるため碑を建立する。

                   銀座通聯合会



所在地 東京都中央区銀座1-5-14 

京都の伏見稲荷から勧請したと言われている、江戸時代からの銀座1丁目の護り神。その昔太刀の市がたったことから太刀売稲荷と言われていた。縁結びのご利益がある神社として有名。


所在地 中央区銀座3-14-15

     宝珠稲荷神社の由来
宝珠稲荷神社は1615年の頃三河の国深溝の領主板倉内膳匠重昌の江戸屋敷内に家内安全火除の神として祭神せられたるものなり
内膳匠重昌は京都所司代及江戸町奉行として今名高かりし板倉勝重の次男として1588年後陽成天皇の御代天正13年の頃の生れである 重昌は武勇に富み敬神の念厚く大阪冬の陣島原の乱等に追討軍今として鎮台に務めたるも不幸にして島原に於て年令50才にして戦死したるものなり 
時の将軍は家光であり第110代後光明天皇の御代である内膳匠の兄周防の守重宗は下總の国関宿の城主なり 年経て1760年宝暦年間岩見の国津和野の城主亀井家に譲渡せられたるものなり
明治の維新に於ける亀井滋玄の功積は大鼓稲荷と共に有名なり 更に大正7年(1918)岡山の岡崎家に売却されたるも爾来本神社は敷地と共に地元木挽町3丁目氏子に寄進せられ1950年地元氏子有志相計り隣接地を買収し社殿及社務所を建設して今日に至るものなり
 1972年5月 
  宗教法人 宝珠稲荷神社
  東京都中央区銀座3丁目東町会



所在地 中央区銀座4-6 (三越銀座店屋上)

 銀座出世地蔵尊の縁日といえば、その賑わいは大変なもので、明治・大正・昭和の初期にかけて夜店とともに銀座を代表する風俗であり、銀座について書かれた書物にもよく触れられ、その様子をうかがい知ることができます。
 地蔵の由来について、明治9年(1876)7月22日の『郵便報知』には「銀座3丁目の横町に此程流行する地蔵尊ハ去る文久元酉年7月18日三十間堀壱丁目六番地先き古土蔵取繕の節同所鳶頭田中善太郎が地中より堀出し・・・」とありますが、詳しくは不明な点が多く、また、「出世地蔵」という名称のいわれも諸説あって、その時期についても不詳です。
 この銀座出世地蔵尊は、時代の変遷のなかで煉瓦街や夜店が失われた現在の銀座において、明治からの面影を伝える貴重なもので、中央区民有形民俗文化財に登録されています。
 平成7年(1995)3月  中央区教育委員会


               SHUSSE JIZO(Ginza Guardian Deity)
 Early in the Meiji era(1868~1912),this guardian deity was unearthed in this area.
 It is called "Jizo",which is a stone statue of the divine image of God(usually a childs gentle face).
 It is said that this Jizo was worshipped by many people who leved in the Ginza area.
 This Jizo was places here in 1968 when the stone was renovated and symbolizes luck,success in lefe,long life and prosperity in buiseiness.
 We hold memorial services on the seventh day of each month.All new worshippers are welcome.

明治初年、三十間堀川の開さく中、地中より、地蔵菩薩の石像を発掘、世に出る。これが出世地蔵の由来。御利益は祈願して成就せざるはなしといわれている。


所在地 中央区銀座4-6 (三越銀座店屋上)

 弘法大師の建立と伝えられ、守迦之御魂命をまつる。
文和年間に社殿再建の折、白狐が御神体を三度めぐったと言う故事により「みめぐり」と呼ばれる。
尚、三井家(三越の前身)の守護神として三越本店、屋上に祭られ、又御神体は向島言問橋近くの御本社に安置されている。

          MIMEGURI SHRINE
 It is said that this shrine was built by Kobo Daishi,a great teacher in Japan.
 The original shrine is to be found neat to Mukojima Kototoi bridge.
 Mimeguri means' circle three times',folklore tells us that a holy white fox circled this shrine three times during the ceremony of reconstruction,in the year 840.
 Now this shrine is dedicated to the God of the Mitsui family (founders of Mitsukoshi).
 You will find the same type of shrine on the roof of all Mitsukoshi stores.
 This shrine is said to bestow good luck and to grant the wishes of all that worship here.


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永山
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