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東京都中央区の歴史
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所在地 東京都中央区銀座8-20-26先

 この信号機は、昭和6年(1931年)から昭和62年(1987年)1月31日までの56年間、国鉄汐留駅と東京都中央卸売市場築地市場との間を貨物引込線の踏切用として使用されました。

 最盛時には、1日150輌に達する貨物車が通過しましたが、貨物輸送の変化に伴い、汐留駅廃止と共に引込線も撤去されることになりました。しかしながら、地元民の要望により、銀座には珍しい鉄道踏切信号機として、保存されることになりました。

 

  < 保存理由 >

 元この高速道路の下には汐留川が流れ、鉄橋も架かっていました。

 汐留駅は、わが国の鉄道開業当時における始発駅の新橋駅でしたが、大正3年(1914年)東京駅が中央駅になると、ここは貨物駅になりました。大震災後、築地に東京中央卸売市場が完成すると、汐留駅と市場間に荷物運送のための線路がしかれ、大きな働きをしたのです。

 都民の暮らしの台所を支えてきたこの信号機を、国鉄廃止に当たり捨て去られるのにしのびず、東京都中央卸売市場築地市場、東京都第一建設事務所並びに中央区教育委員会、地元各位の多大な御協力に依り、ここに永久保存されることになりました。

 昭和62年(1987年)12月  

            銀座御門通り会  銀座金春通り会

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所在地 東京都中央区銀座5-1(泰明小学校)

 この通りは、明治天皇が、宮城より海軍兵学校に御行幸された折に御通りになられたことからみゆき通りと呼称されるようになったといわれている。

 また門扉は、その時代南フランスの貴族の館で使用されていたものである。

所在地 東京都中央区銀座8丁目20~26

 明治9年(1876年)6月17日、この地に工部省電信寮の碍子試験所が発足して電信用碍子の電気試験がおこなわれた。これが我が国における近代的物品購入検査の始まりである。

所在地 中央区銀座1-2

 (中央区民文化財)

 京橋は、江戸時代から日本橋とともに有名な橋でした。橋は、昭和34年(1959年)、京橋川の埋め立てによって撤去され、現在では見られませんが、その名残をとどめるものとして、三本の親柱が残っています。

 橋北詰東側と南詰西側に残る2本の親柱は、明治8年(1875)当時の石造の橋のものです。江戸時代の橋の伝統を引き継ぐ擬宝珠(ぎばし)の形で、詩人佐々木支陰の筆によって、「京橋」「きやうはし」とそれぞれ橋の名が彫られています。

 一方、橋南詰東側に残る親柱は、大正11年(1922年)にかけられた橋のものです。石及びコンクリート造で、照明設備を備えたものです。

 京橋の親柱は、明治、大正と二つの時代のものが残ることから、近代の橋のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。

所在地 中央区銀座1-11-2

 明治3年(1872年)2月26日、銀座は全焼し、延焼築地方面に及び焼失戸数4,000戸と称せられる。

 東京府知事、由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企割建策し、政府は國費を以って煉瓦造2階建アーケード式洋風建築を完成す。

 煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり。 

所在地 東京都中央区銀座2-7先

 慶長17年(1612年)、徳川幕府はこの地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置する。当時の町名を新両替町と称したが通称、銀座町と呼称されていた。

 明治2年(1869年)、遂に銀座を町名とする事に公示される。

 寛政12年(1800年)、江戸幕府は江戸に貨幣の鋳造を集中し、直営事業としました。「銀座」は江戸幕府の金融政策の一端を担う重要な役所だったのです。

 当時、銀は国内経済を支えるだけでなく、海外への重要な輸出品でした。生糸や絹織物などを輸入するために銀が支払われ、海を越えた日本の銀は世界の市場に流通していきました。

所在地 東京都中央区銀座7-13-10先

 (汐留遺跡)

 四角錘の形をした間知石(けんちいし)と、板状に加工された切り石は、大名屋敷の石組溝(いしぐみみぞ)(排水施設)に使われていたものです。

 所在地 東京都中央区銀座7-14-13先

 (汐留遺跡)

 平らに加工された礎石は江戸時代上屋敷の柱の土台として使われ、正方形の穴は、柱を中央に固定するためのほぞ穴です。

所在地 中央区銀座1-26-1(京橋会館前)

       弾正橋 京橋2・3丁目~八丁堀3・4丁目

       白魚橋 京橋3丁目~銀座1丁目

       真福寺橋 銀座1丁目~新富1丁目

 ここから北方約30mの地点には、明治の年末まで、北東から楓(もみじ)川、北西から京橋川、東へ流れる桜川、南西へ流れる三十間堀が交差していました。この交差点に近い楓川に弾正(だんじょう)橋、京橋川に白魚橋、三十間堀に真福寺橋が架かり、この三橋を三つ橋と称していました。

 三つ橋は、すでに寛永9年(1632年)作成といわれる「武州豊嶋郡江戸庄図」に図示されていますが、橋名の記入はなく、橋名についても幕末までいろいろ返遷がありました。

 明治末に真福寺橋、昭和34年(1959年)に白魚橋がいずれも河川の埋立てによって廃止され、弾正橋は昭和37年(1962年)、高速道路工事によって現在の姿となりました。 

 

 

所在地 中央区銀座5-1-13(泰明小学校)

 泰明小学校は明治11年(1878年)6月に開校され、北村透谷と島崎藤村はその初期の卒業生でした。

 北村透谷(1868~1894)は、現在の神奈川県小田原市に生まれ、明治14年(1881年)に家族とともに京橋区弥左衛門町(現在の銀座4丁目)に転居し、翌年卒業するまで泰明小学校に通いました。その後、自由民権運動に惹かれて政治運動を志しましたが、後に文筆活動に転じ文芸評論家・詩人として活躍しました。明治26年(1893年)雑誌「文学界」に参加した透谷は、文芸における自由主義を唱え、近代浪漫主義文学の開拓者といわれました。

 島崎藤村(1872~1943)は、中山道馬籠宿(現在の岐阜県中津川市)に生まれ、明治14年(1881年)に上京し、京橋区鎗屋町(現在の銀座3・4丁目付近)の姉の嫁先から泰明小学校に通学しました。その後、姉夫婦が帰郷したことにより同郷人の家に寄寓し、明治17年(1884年)に卒業しました。明治学院在学中に文学への関心を深めた藤村は、「文学界」の活動を通して透谷から深い影響を受けました。著作に「若菜集」・「春」・「夜明け前」などがあり、中でも「破戒」は自然主義文学の先駆と言われています。

所在地 中央区銀座1-26-1(銀座ラフィナート)

 我が国における自動車電話交換方式の発祥は大正15年(1926年)1月20日、旧京橋電話局の交換業務開始による。自動電話交換開始50年に当り京橋電話局跡であるこの地に、記念碑を造り昭和50年(1975年)1月20日除幕した。記念碑は当時の自動電話交換機の回路図の一部を図案化したものであり、銘板は米澤滋博士の筆によるものである。

         自動交換開始記念碑設置委員会

所在地 中央区銀座4-1-2(数寄屋橋公園)

 この塔は大正12年(1923年)9月1日午前11時58分 東京を中心に関東一帯をおそった大震災を記念するため広く浄財を集めて10周年の昭和8年(1933年)9月1日に建てたものでわが国彫刻界の巨匠北村西望先生が「平和の神」を象徴して制作されたものであります。
 
標語の「不意の地震に不断の用意」は当時朝日新聞社が全国から懸賞募集した十余万の応募の中から選んだもので長くこの日をしのび二度と惨害をくりかえさぬよう注意を喚起するものであります。
 
昭和35年(1960年)9月1日
     
震災共同基金会 朝日新聞厚生文化事業団

 <震災の被害状況>
死者      99,331
負傷者    103,733
行方不明者 43,476
倒壊家屋 全壊    128,266
       半壊     26,233
       焼失家屋 447,128

所在地 中央区銀座8-6~8地域

 江戸時代、幕府直属の能役者として知行・配当米・扶持を与えられていた家柄に、金春(こんぱる)・観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金剛(こんごう)の四家がありました。能楽は宝町時代に足利幕府の保護奨励を受けて発達し、安土桃山時代には熱心な愛好者であった豊臣秀吉の保護を受けて大いに興隆しました。

 とくに、金春家は秀吉の強力な保護を受け、能楽の筆頭として召しかかえられました。江戸幕府も秀吉の方針を踏襲して能楽を保護し、金春・観世・宝生・金剛の四座を幕府の儀礼に深く関わる式楽と定めました。

 元禄6年(1693年)頃の江戸市中の状況を記した『国花万葉記』によると、金春大夫は山王町(現在の銀座)・観世大夫は弓町(現在の銀座)・宝生大夫は中橋大鋸(おが)町(現在の京橋)・金剛大夫は滝山町(現在の銀座)に屋敷を拝領していたとされています。

 金春家は、寛永4年(1627年)に屋敷を拝領したといわれ、寛永9年(1632年)の江戸図『武州豊嶋郡江戸庄図』には「金春七郎」の名を確認することができ、現在の銀座8丁目6・7・8番地全体を占めていたように図示されています。後に、この屋敷は麹町善国寺谷(千代田区麹町3・4丁目)に移りましたが、跡地には芸者が集まり花街として発展していき「金春芸者」といわれるようになりました。金春の名は、「金春湯」・「金春通り」などとして、今もこの地に残っています。

 所在地 中央区銀座8-9先

 昭和初期、関東大震災(1923年)復興事業の一環として、銀座”柳”が植えられました。信州安曇野から運ばれた若木は、すくすくと生長し銀座の街並みに美しく映え、歌にも歌われる程愛着をもたれるようになりました。

 しかし、戦災や近年の道路整備などで、その姿も消え、今では往時を偲ぶよすがもありません。

 中央区では”柳”「区の木」に制定し、区内各所に植えていますが、この度、長野県穂高町の御好意により、当時と同じ安曇野地方算出の”柳”を寄附していただきました。そこで緑美しい銀座の再現を願ってこの地に植栽するものであります。

 所在地 中央区銀座8-7

 銀座は日本に二箇所しか建設されなかったきわめて貴重な煉瓦街の一つです。銀座の煉瓦街は世界でも珍しい規模のものでした。もう一つは丸の内の煉瓦街でした。しかし今日では残されたこうした遺構から明治時代の煉瓦街を窺い知るほかはありません。

 設計者はトーマス・ジェイムス・ウォートルスというイギリス人です。フランス積みで、明治5年(1872年)から明治10年(1877年)にかけて当時の国家予算の4%弱を費やし、延べ10,460mという壮大なものでした。

 この煉瓦は昭和63年(1988年)に銀座8丁目8番地(旧金春屋敷地内)で発掘されたものでゆかりの金春通り記念碑として保存される事になりました。

 土地所有者の故松川浩子氏のご厚意で大部分は江戸東京博物館に展示され、その一部を「銀座金春通り煉瓦遺構の碑」が史跡として平成5年(1993年)9月に建立されました。

 下の絵は、明治初期のガス灯や張り板、提灯など当時の金春通り煉瓦街を偲ばせる古い写真を元に銅版に彫金したもので、見る角度により昼夜の陰影が出るよう微妙な細工が施されています。                  

 

 

 

                         銅版画制作  第十一代 銅昭

【 能楽金春祭り 】

8月7日に金春通りの路上で演じられる番組は、いずれも、千年の古儀を誇る『奈良金春』独特の能楽であり、平和を祈願し、泰平を喜ぶおめでたい曲です。

所在地 中央区銀座5・6丁目 中央区築地5丁目

 このあたりは、江戸前期に松平采女正の屋敷があり、享保9年(1724年)の大火で焼けたあと日除地になって、俗に采女が原と呼ばれました。橋名の由来はここからきたものと思われます。

 采女が原は、明治2年(1869年)に采女町と称する市街地となり、銀座煉瓦街築地の外国人居留地との間に位置して和洋混合の新興市街地が形成されていったようです。

 震災復興時に架け替えられた現在の橋は、当時意匠的に優れていたといわれるアーチが採用されました。また橋の下は昭和37年(1962年)に築地川から現在の高速道路に姿を変えました。

 中央区では平成2年度に、幻のホテル”築地ホテル館”〔明治元年(1868年)、近代的な様式ホテル第一号として誕生し、栄華を誇ったが明治5年(1872年)に焼失〕と”銀座の柳”を題材にした意匠で高欄等を整備しました。

形式  2径間鉄筋コンクリートアーチ橋

橋長 42m

有効幅員 15m(車道9m 歩道3m×2)

着工 昭和4年(1929年)9月

竣工 昭和5年(1930年)10月

施工主 東京市

所在地 中央区銀座8-8~10付近

 ここの南方、高速道路の下には、もと汐留川が流れ、中央通り(旧東海道)には、昭和39年(1964年)まで新橋が架かっていました。

 宝永7年(1710年)、朝鮮の聘使(へいし)の来朝に備えて、新井白石の建策にもとづきわが国の威光を顕示(けんじ)するため、この新橋の北詰に、現に外桜田門に見られるような城門が建設されて、芝口御門と呼ばれ、新橋は芝口橋と改称されました。

 城門は橋の北詰を石垣で囲って枡形(ますがた)とし、橋のたもとの冠木門(かぶきもん)から枡形(ますがた)に入って右に曲ると、渡櫓(わたりやぐら)があって堅固な門扉が設けられていました。しかしこの芝口御門は建築後15年目の享保9年(1724年)正月に焼失して以来、再建されず、石垣も撤去され、芝口橋は新橋の旧称に復しました。

所在地 中央区銀座5-13-9~14付近

 江戸幕府の奥絵師(おくえし)であった狩野四家は、いずれも狩野探幽(たんゆう)(守信)、尚信(なおのぶ)、安信の三兄弟を祖とし、鍛冶橋・木挽町・中橋の三家と木挽町の分家浜町と、四家全て区内に拝領屋敷がありました。

 木挽町狩野家の祖、仮の尚信は寛永7年(1630年)に江戸に召し出され、竹川町(銀座7丁目)に屋敷を拝領して奥絵師になりました。のち、安永6年(1777年)6代典信(みちのぶ)(栄川)の時に、老中田沼意次(おきつぐ)の知遇を得て、木挽町の田沼邸の西南角にあたるこの地に移って、画塾を開きました。

 奥絵師四家のなかでもっとも繁栄した木挽町狩野家は、諸大名などからの制作画の依頼も多く、門人もまた集まりました。門人のほとんどは諸侯のお抱え絵師の子弟で、14、5歳で入門し、10年以上の修行を要しました。修業を了えた者は師の名前から一字を与えられて、絵師として一家を成す資格を持つといわれました。

 この狩野画塾からは、多くの絵師が輩出しましたが、明治の近代日本画壇に大きな貢献をした狩野芳崖や橋本雅邦はともに、木挽町狩野最後の雅信(うたのぶ)(勝川)の門下生です。

      平成9年(1997年)3月 中央区教育委員会

所在地 中央区銀座6-10

 明治8年(1875年)、この地に商法講習所を開設する。

 これ現在の一橋大学の発端なり。

所在地 中央区銀座5-1-1(数寄屋橋公園)

 寛永6年(1629年)江戸城外廊見附として数寄屋橋が初めて架けられた時は幅四間長三間の木橋であった。

 橋名は幕府の数寄屋役人の公宅が門外にあったのに依るという見附の城門枡形は維新の際に撤去され ついで大正大震災(1923年)後の復興計画によって完成を見た近代的美観を誇る石橋が銀座の入口を扼することヽなった。

 爾来30年首都交通の激増はこの界隈を更に変貌させた外壕上を高架車道が地下には地下鉄が走るようになって橋も姿を消し こヽは渾然たる大銀座の一劃となった 本会は茲に旧橋の遺材を以て碑を建て感慨深い東京文化の変遷を偲ぶよすがとした。

  1959年4月 数寄屋橋公園美化協力会

 

 (碑前面)

     数寄屋橋  此処に  ありき

                      東田一圭

所在地 中央区銀座6-6-7先 朝日ビル前

京橋の 瀧山町の 新聞社
  灯ともる頃の いそがしさかな 
啄木

 石川啄木が朝日新聞社に勤務したのは、明治42年(1909年)3月から明治45年(1912年)4月13日、27歳でこの世を去るまでの約3年間である。この間彼は佐藤真一編集長をはじめとする朝日の上司や同僚の厚意と恩情にまもられて、歌集『一還の砂』、『悲しき玩具』、詩集『呼子と口笛』など多くの名作を残し、庶民の生活の哀歓を歌うとともに時代閉塞の現状を批判した。
 
銀座の人びとが啄木没後60年を記念して朝日新聞社跡に歌碑を建立したのはこの由緒によるものである。
  
昭和48年(1973年)4月1日
    
日本大学教授 文学博士 岩城之徳

所在地 中央区銀座6-17-1(元日産自動車本社・現読売新聞社)

 明治維新の国是をふまえ、欧米諸国の制度文物を採り入れ、時の産業界の指導者が相携えて、明治11年(1878年)3月12日、商工業発展のための総合的団体として東京商法会議所(東京商工会議所の前身)を創立しその事務所を置いたのがこの地である。

 ここには明治24年(1891年)以来、農商務省、次いで商工省が昭和18年(1943年)まで所在し、明治、大正、昭和の三世代にわたって、日本産業発展のための官民協力の場ともいうべきところとなった。

 昭和53年(1978年)3月12日、東京商工会議所創立100周年にあたり、ここに記念碑を建てて後世に残すものである。

     東京商工会議所会頭 永野重雄

所在地 中央区銀座8-13先

(汐留遺跡)手水鉢(ちょうずばち)

 龍野藩(兵庫県)脇坂家上屋敷内、祠(ほこら)の参道から出土した手水鉢(ちょうずばち)に刻まれた

『 奉献・羽団扇紋(はねうちわもん)・○月吉○ 』

など、当時の屋敷内が偲ばれます。 

所在地 中央区銀座4-1-2 数寄屋橋公園

 

 『銀恋の碑』

  銀座の恋の物語  《作詞:大高ひさを 作曲:鏑木創》

 心の底までしびれる様な

 吐息が切ない囁きだから

 泪がおもわず湧いてきて

 泣きたくなるのさ この俺も

 東京で一つ 銀座で一つ

 若い二人が 始めて逢った

 真実(ほんと)の 恋の 物語り

 

 『銀座の象徴 柳並木』

 銀座の柳は明治10年(1877年)頃銀座に植えられ銀座の象徴とされたが三度の変遷を経て昭和43年(1968年)銀座通りの改修と共に姿を消した。

 このたび西銀座通りが東京都のシンボルロードとして歩道拡張と共に御影石舗装を施し面目一新されたことを機に並木を柳に代え銀座の象徴復活を果たした。

 西銀座連合会はこの柳が末長く人々に愛され親しまれ続けることを願いここ数寄屋橋公園に碑を建立する。

 平成11年(1999年)11月 西銀座通会会長 柳澤政一

 

所在地 中央区銀座2-6-12

 明治15年(1882年)11月こヽに始めてアーク灯をつけ不夜城を現出した 当時の錦絵を彫刻してその記念とする

  昭和31年(1956年)10月1日


銀座通聯合会 照明学会 関東電気協会 東京電力㈱

 

 



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