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東京都中央区の歴史
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所在地 中央区銀座 東京メトロ銀座駅

     銀座線A口D口、丸の内線C口、日比谷線中央口

 彫刻家  笠置秀男氏が『出入り口の表示としての、モニュマン性を備えることは無論のこと、地下鉄のシンボルともなり、次第に伸び行く若者達の希望に燃えた感情を表現したものにしたい』ということからギリシャ神話に出てくるスピードと商業の代表者「マーキュリー」という題材に結びついたそうです。

 昭和26年(1951年)銀座4丁目交差点の回りに設けられた地下鉄出入り口の上屋の軒先に登場、世の人々に歓迎され非常に評判を呼びましたが昭和39年(1964年)銀座総合駅開業時に現所(銀座線A口D口、丸の内線C口、日比谷線中央口)に移設、今日に至っております。

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所在地 中央区日本橋3丁目・京橋1丁目先

 日蘭修好380周年記念碑

 日本とオランダの関係は、ウイリアム・アダムスやヤン・ヨーステンらの来航によって始まった。慶長14年(1609年)平戸にオランダ商館が設立され(後に長崎に移る)、鎖国時代の日本のヨーロッパに対する唯一の窓口になり続けた。オランダがもたらした学術・文物が日本に与えた影響は大きく、明治以後の日本近代化の大きな礎になった。

 とくに中央区とオランダとの歴史的な関係も深く、日蘭修好380年を記念してここにモニュメントを設置し、永久にこの友好を保存するものである。

        1989年4月200日  東京都中央区

 

 二つの羅針盤の輪が天球儀の形に組み合わされています。

 羅針盤は、当時世界をリードしていたオランダの航海技術の象徴であり、また天球儀は”時”の象徴でもあります。

 左側の頭部がヤン・ヨーステん像、右側の帆船が日本漂着の際、彼が乗り組んでいたとされるオランダ船リーフデ号です。中央上部には当時のオランダの国策会社東インド会社のマークが置かれています。中央下部の図柄は、古地図で方角を示すのに使われたもので太陽をモチーフにしています。四隅は波=海を図案化したもので、これも古地図にヒントを得ています。

 

 

 < ヤン・ヨーステン(1557頃~1623) >

 慶長5年(1600年)、オランダ船リーフデ号でウイリアム・アダムスらと豊後に漂着した。そのまま日本に留まり、徳川家康の信任を得て、外交や貿易について進言する役目についた。彼の江戸屋敷現在の和田倉門~日比谷公園間の内濠の沿岸に与えられ、この地が彼の名にちなんで八代洲河岸(やよすがし)と呼ばれて、明治まで続いた。現在は中央区八重洲としてヤン・ヨーステンに因む地名が残っている。

       ヤン・ヨーステン像:オランダ人 L.P.プラート作

所在地 中央区東京駅八重洲地下街

 ヤン・ヨーステン記念像  オランダ人 LPJブラート作

 ヤン・ヨーステンは和蘭人で西暦1600年豊後の海で難破した和蘭船に乗っていた。そのまま日本に住みつき徳川家康の信任を得る。外交や貿易について進言をする役目についた。その江戸屋敷は和田倉門外の堀端にあったので、後に彼の名にちなんで八代洲河岸と称せられ、更に八重洲になった。ここに彼を偲んで記念像を置く。

所在地 中央区日本橋箱崎町36・江東区

橋下  隅田川

架橋年月  昭和54年(1979年)11月

橋長  210.3m

 隅田川大橋は、高速道路(9号線)と、都道475号線が重なった、珍しい橋である。
 箱崎町は、吹く区は大名屋敷のならぶ、隅田川三角州のひとつであったが、維新後には、最初の日本銀行が建てられた地であり、また倉庫や住宅地でもあった。現在は、箱崎川が埋立てられ、高速道路のインターチェンジと、成田空港に行くエアーターミナルが設けられた。街もまたビルやマンションの立ちならぶ、交通量の多いところとなって、昔の俤(おもかげ)はない。
 対岸の深川は、社寺の多い街として発展し、以前は木場でも有名であった。わが国最初のセメント工場跡も近い。
 昭和54年(1979)10月に完成したこの橋は、京浜・京葉地帯を結ぶ湾岸道路に通じ、隅田川十五橋の中では、形も役割も得意な橋となることであろう。
 昭和59年(1984)3月  東京都



所在地 中央区日本橋中洲6 ~ 江東区

日本国重要文化財
 清洲橋
     平成19年(2007)6月18日指定(建第2500号)

諸元  橋長 186.2メートル
     幅員 25.9メートル
     上部工 銅製3径間補剛吊橋

橋下  隅田川

架橋年月  昭和3年(1928年)3月

所有者   東京都



 清洲橋は、っ関東大震災復興事業によって建造され昭和3年(1928)3月に竣功した。
 清洲橋の特筆すべき点として、上部構造は日本国内では珍しい橋端部に水平力の及ばない自碇式連続補剛吊橋で塔柱から吊るされた吊鎖を橋端部において主桁と連結し、主桁は左右の橋桁を繋ぐ構造である。放物線状の優美な外観の吊鎖は、高張力マンガン鋼のデュコール鋼を吊鎖に用いるなど、洗練された造形によって、力学的合理性に基づく近代的橋梁美を実現した橋梁である。
 下部構造は鉄筋コンクリート造で固定式空気潜函工法を用いた橋脚と、締切工法による橋台二基からなる。
 建造工事は、内務省復興局が施工し、後に東京市に引き継がれた。設計者は、内務省復興局土木部長太田圓三及び同技師田中豊の指導のもと、同技師鈴木清一らである。

所在地 東京都中央区銀座4-1-2(数寄屋橋公園)

  昭和26年(1951年)7月、「銀座フェアー」と「矯正保護キャンペーン」を通じて、犯罪の防止と犯罪をした人たちの立ち直りには、一般市民の理解と協力が不可欠であるという認識を深めた法務府(現在の法務省)は、この啓発活動を将来とも継続して一層発展させる必要があるとして、“社会を明るくする運動”と名付け、国民運動として世に広げることにしました。

 この度、中央区の保護司会と更正保護女性会が創立50周年・30周年を記念して、この運動の意義と理念を新しい世代に伝え、平和で明るい社会の実現を祈念して、「社会を明るくする運動」発祥の地銀座に記念碑を建てました。

 平成16年(2004年)1月 
       中央区保護司会 中央区更正保護女性会

 

<銀座フェアー>

 昭和24年(1949年)7月1日、「犯罪をした者の改善及び更生を助け…、もって、社会を保護し、個人および公共の福祉を増進する」ことを目的とした「犯罪者予防更生法」という更生保護制度の基本法が施行されました。

 これによって更生保護制度が新しくスタートしましたが、戦後の荒廃した中にあって、かねてから街にあふれた子供たちの将来を危惧していた東京・銀座の商店街の有志が、この法律の思想に共鳴し、保護少年のためのサマースクールの開設資金の造成などを目的に、自発的に同年7月13日から1週間にわたって「犯罪者予防更生法実施記念フェアー(銀座フェアー)」を開催しました。

<矯正保護キャンペーン>

 銀座フェアーが刺激となり、また犯罪者予防更生法施行1周年を記念して、その翌年の昭和25年(1950年)7月1日~10日まで、「矯正保護キャンペーン」が全国的に実施されました。

 このキャンペーン期間中に、前年の銀座フェアーに示された一般市民の熱意と善意を高く評価して、保護司全国協議会、映画会、記念スタンプ、リーフレットの配布、街頭宣伝活動などの啓発活動が全国的に実施されました。

 街にあふれる戦災孤児、犯罪や非行の激増による社会不安の増大、インフレや物資不足で余裕のない生活の人々にとって、不幸な少年に対する思いやりや愛の心を呼び戻し、殺伐とした世相に明るい光をともしたとも言われています。

所在地 中央区築地1-2 中央区新富2-7 

橋下 首都高速道路

架橋年月 昭和44年(1969年)11月

橋長 35.5m

所在地  中央区日本橋茅場町3-13先

 

 <戦災遭難死者慰霊碑>(左碑)

昭和20年(1945年)3月10日夜半の空襲により

全町焼失の際に遭難された霊を慰むる碑

昭和53年(1978年)3月10日  茅場町2,3丁目町会有志建之

発起人代表   神林 清作

石匠   高橋 正男    

 

 

<大震火災遭難者追悼碑>(右碑)

大正13年(1924年)9月1日建之

所在地 東京都中央区銀座8-4-5

 八官神社の創建は定かではない。明治2年(1869年)焼失するもが明治5年(1871年)再建される。昭和12年(1937年)鉄筋コンクリート造りとなり。
 昭和57年(1982年)にはビル化する。

 八官神社は宝くじにご利益があるとのことで、宝くじ購入前に立ち寄る人も多い。

所在地 東京都中央区日本橋2-4-1

竣工  昭和8年(1933)
設計  高橋貞太郎

 高島屋は明治23年(1890)に東京へと進出してきた呉服店ですが、元は天保2年(1831)、古着木綿商として京都で創業し、呉服商へと転じた老舗です。
 昭和8年(1933)の竣工後、数回増築を繰り返しています。(増築設計、村野藤吾)


 高島屋日本橋店 北別館にあるロッテリアは日本第1号店です。

所在地 東京都中央区銀座8-11先

 三十間堀は京橋川から汐留川にいたる横堀川でした。

 慶長17年(1612年)江戸の船入堀(ふないりぼり)を整備するため、西国大名に開削工事を命じて完成しました。堀幅が三十間あったために三十間堀と呼ばれました。文政11年(1828年)に幅を十九間に狭めたといわれています。

 江戸時代初期の『寛永江戸図』に三十間堀と見え、堀の南側は紀伊徳川家をはじめ、京極(きょうごく)、加藤、松平などの諸大名の屋敷が並んでいました。延宝年間(1673~1681)の図では西岸は三十間堀町1~8丁目、東岸は木挽(こびき)町1~7丁目で、河岸場があり、舟運の荷物の揚げ場でした。

 幕末から明治時代にかけて、船宿が並んで屋形船や屋根船が往来し、明治34年(1901年)の『新撰東京名所図会』にも、その賑わいの様子が描かれています。

 明治17年(1884年)、三十間堀には真福寺橋、豊蔵橋、紀伊国橋、豊玉橋、朝日橋、三原橋、木挽橋、出雲橋等多くの橋が架けられていました。

 三十間堀は戦後、灰燼(はいじん)の山を処理するために、昭和23年(1948年)から埋立てが始まり、昭和27年(1952年)7月に完了したあとは次第に商店やオフィスなどの立ち並ぶ街になりました。

      平成10年(1998年)3月 中央区教育委員会

 積み上げられた五個の築石は、三十間堀のもので、中央区銀座8-12-9護岸より発掘されたものです。

 上の石は、焼く1.5tあり銀座8-10-4、旧料亭蜂龍跡地から発掘されたもので、此所は江戸名所図絵にも描かれ、今日の信楽通りの源である「信楽茶屋」跡と云い伝えられております。

 

所在地 東京都中央区銀座5-1-1(数寄屋橋公園)

岡本太郎作 昭和41年(1966年)建立

 数寄屋橋ライオンズクラブの結成記念として岡本太郎氏に製作を依頼。「太陽の塔」の小型版である。

 時計はシチズン製

 

 

<寄贈>

銀座ライオンズクラブ

数寄屋橋ライオンズクラブ

 

<協賛>

三井建設㈱

シチズン時計㈱

日本軽金属㈱

熊取谷石杙工業㈱

㈱阪急百貨店

朝日麦酒㈱

東芝商事㈱

所在地 東京都中央区銀座5-9-19 (銀座あづま通り)

 ご祭神 倉稲魂命

 戦後メインストリートとして発展した あづま通り・三原小路に火災が続発し町内の者も不思議に思い調査の結果 この一角にお稲荷さんが祀られていたことが判明 そこで町内一同相談の上 京都伏見稲荷講中をつくり あづま稲荷大明神と命名 京都伏見稲荷大社にお参りし御霊を頂き 氏神様 山王日枝神社に御祈祷をを願い三原小路の方々の格別の御芳志により現在地に鎮座し盛大にお祀りを致しましたところ以後全く火事にあわず 霊験あらかたに今日に至っております

 年一回 初午の日に大祭を斉行し街の発展と火防・盗難守護の祈願いたしております。
   
あづま稲荷神社

 
 <あづま稲荷奉納者名>
今井家 龍善堂 若松 大和屋 丸江藤屋 松坂屋銀座店 京や ギンザコア連合会 三松 新富鮨 新松 清月堂 世きね

戦後、この辺りで火災が相次いだことがあり、調べた結果かつてこの一角にお稲荷さんが祀られていたことが判明。そこで京都伏見稲荷講中を作り、あづま稲荷大明神と命名し、勧請したところ、以後全く火災にあわなくなり、今日に至る。

所在地 東京都中央区日本橋本町1-8

 当社は室町中期長禄元年(1457年)に太田道灌が江戸城を築城の際、京都伏見稲荷大神の御分霊をいただき、常盤稲荷と名づけ、同城お守護神として勧請された。後に、徳川家康公開府により、江戸城廓拡張工事が行われ現在の常盤橋(もともと大橋と称されていたが、当社がこの地に移ってより社名をもって常盤橋に改称された)辺りに社地が移された。

 宝暦(1751~)の頃まで、社殿に掲げられていた太田道灌の額面に

   名に高き 蘆のなぎさの 葭原に

         鎮めまします 常盤の神

の歌が記されていたと伝えられる。

 その後更に、長浜町の日本橋魚市場内に移り、市場の守護神水神大神(罔象女神)を相殿に祀り鎮座された。

 当時は、大市場交易神と称され盛大な水神祭が行われ、神田祭・三大王祭と共に、大江戸の名物行事でもあった。

 この水神大神は、明治34年(1901年)に神田神社境内に遷され水神社と改称し、築地市場の守護神として祀られ今日に至っている。

 合祀されている末社産千代稲荷神社のご祭神は倉稲魂命・三穂津比売命二柱の大神が祀られている。古来より安産の守護神として厚い信仰があり参詣者が極めて多かったと伝えられる。そのお礼参りに桜の若木が奉納される習わしがあり、当時は魚市場中桜花爛漫の景観であったといわれている。

<ご祭神>  倉稲魂命(くらいなたまのみこと)(稲荷大神)

   (相殿)  罔象女神(みずはのめのかみ)

所在地 東京都中央区銀座1-7先

 銀座の柳は明治20年(1887年)ごろ銀座通りに植えられて以来大正9年(1920年)撤去昭和6年(1931年)復活の変転を経ながら数多くの詩歌にうたわれ人々に親しまれてきた銀座のシンボルとなった柳も樹勢の衰えもあって昭和43年(1968年)歩道の大改修に当たり移植の止むなきに至った。

 いまふたたびこの通り一帯に柳を迎えて「銀座柳通り」と名づけるに際し永く銀座の柳の由来を伝えるため碑を建立する。

                   銀座通聯合会

所在地 中央区東日本橋2丁目(神田川)  台東区

   中央区民有形文化財

 柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁です。

 その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡舟で往き来していましたが、不便なので元禄10年(1697年)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌元禄11年(1698年)に完成しました。

 その頃の柳橋辺りは隅田川の舟遊び客の船宿が多く、”柳橋川へ蒲団をほうり込み”と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。

 明治20年(1887年)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正12年(1923年)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツ、ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和4年(1929年)に完成しました。

 完成から70余年、現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成3年(1991年)に整備し、平成11年(1999年)に区民有形文化財に登録されています。

     平成14年(2002年)3月 中央区教育委員会

所在地 東京都中央区新川2-25-11

中央区民有形文化財
 於岩稲荷田宮神社の鳥居・百度石

 於岩稲荷田宮神社(おいわいなりたみやじんじゃ)は、4代目鶴屋南北の戯曲で、文政8年(1825年)に初演された「東海道四谷怪談」の主人公、お岩の伝承を持つ神社です。社地は歌舞伎俳優の初代市川左団次の所有地であったと伝えられ、花柳界や歌舞伎関係などの人々の参詣で賑わいました。

 境内の本殿横にある石造の鳥居は明治30年(1897年)1月に造立されました。花崗岩製のこの鳥居は、中央区に現存する中では2番目に古い鳥居です。鳥居の形式は「神明鳥居」に属し、柱下部には断面が花形の根巻と四角い台座が付いています。

 

 鳥居の奥にある百度石は民間信仰である「お百度参り」のための石塔です。中央区内に現存する百度石のうちでは最古のものです。左側面には「大阪浪花座興行記念 4代目市川左団次」と刻しており、市川左団次がお岩の上演を記念して奉納したものです。戦前・戦後を経て、現在もこの百度石でお百度参りを祈願する人も少なくなく、庶民の信仰とともに生きています。
 鳥居・百度石は共に中央区民有形文化財に登録されています。
  
平成11年(1999年)3月 中央区教育委員会

 境内には『村田竹次郎顕彰碑』があります。

所在地 東京都中央区新川2-31先

 <水準原点とは>

 現在日本の水準原点は、測量法施行令第2条により東京都千代田区永田町1丁目1番地内にある日本水準点で、その高さは東京湾平均海面上24.4140mと定められています。

(東京湾平均海面をT.P.0mとして算定しています。)

この水準原点の高さに基づいて、例えば、山の高さや土地の高さが「標高○○m」というように求められているのです。

 <日本の近代測量と霊岸島水位観測所について>

 日本の近代測量は明治初期に始まりました。当時の測量方法は主要河川の河口部に水位を測るための「量水標」を設け測量を行うときには近くの「量水標」の平均海面データを用いていました。「量水標」の主なものは、明治5年(1872年)に利根川河口の「銚子量水標」が日本初で、翌明治6年(1873年)にここ霊岸島に、明治7年(1874年)に江戸川と淀川の河口にと、全国の主要河川でそれぞれ設置されました。

 霊岸島水位観測所の零位は、A.P.0m(エーピーゼロ、A.P.はArakawa Peilの略、Peilはオランダ語で「基準」あるいは「標準」の意)と呼ばれるようになりました。

 その後、測量技術などの進歩に伴い、平均海面のデータの全国統一が考えられ、そのとき選ばれたのがここ霊岸島水位観測所だったのです。

 <東京湾平均海面と日本水準原点>

 平均海面を算出するために霊岸島水位観測所で明治6年(1873年)6月から明治12年(1879年)12月の間、4ヶ月間の欠測を除き6年3ヶ月の毎日の満潮位と干潮位を測定しその平均値を求め、さらにその平均値を算出したのです。そのときの値が霊岸島水位標の読み値で1.1344mでした。これを東京湾平均海面すなわちT.P.0mとし全国の高さの基準として定めたのです。そしてその後の明治24年(1891年)5月に東京都千代田区永田町に「日本水準原点」が設置され、このとき霊岸島水位観測所から原点までの水準測量を行い、日本水準原点の高さ24.5000mを基準点としたのです。しかしこの値は、大正12年(1923年)に起きた関東大震災の影響により昭和3年(1928年)に24.4140mに改訂され現在に至っています。

 

 <現在の霊岸島水位観測所>

 日本の水準原点を生んだ霊岸島水位観測所も、その後の東京湾の埋立てや隅田川の河川水の影響があり、水準原点の検証をするための観測所としては、理想的な位置とは言えなくなり、現在では神奈川県三浦半島油壺の観測所にその機能が移されています。

 現在の霊岸島水位観測所は、荒川水系の工事実施基本計画や改修計画の策定及び改訂のための基礎データの観測を続けていますが、隅田川のテラス護岸の施行に伴い平成6年(1994年)5月に元の位置から約36m下流に観測所を移設しました。

 元の観測所の位置には、その歴史的経緯を長く後世に伝えるため、観測柱を正面にシンボル柱として設置しました。また、新しい観測所の3角形のフレームは、土木や建築の設計図などに高さを表す記号として用いられる▽をイメージし、その下端部はA.P.0mを指し、その一辺の長さは観測所位置のある東経139°47’にちなみ13.947mとしています。

 観測室については、斜方十二面体という形で立方体それぞれの面に勾配45°の四角錐を付加したような形をしていて、川に沿って視点を移動していくと正方形、正六角形、八角形と変化して見えるものです。

            建設省関東地方建設局

            荒川下流工事事務所

 



所在地 東京都中央区佃1-8-4(波除稲荷神社)

 佃堀の河岸地にある波除稲荷神社(於咲稲荷神社)の鳥居脇に、三個の力石が置かれています。長径51cm前後の楕円形の石で、どれにも「さし石」の刻銘があり、材質は安山岩です。佃島では漁業に従事する若い衆などが、力競べとして石を持ち上げることが盛んに行われました。石の一つは「佃大市」「佃辰」「佃清」「吉松」など力持ちの名も刻まれています。

                中央区教育委員会



所在地 東京都中央区月島3-24-10(わたし公園)

 「月島の渡し」は、月島一号地の埋立が完成して間もない明治25年(1892年)11月、土木請負業の鈴木由三郎が、南飯田町(現、明石町14)から月島(現、月島3丁目)へ、手漕ぎの船で私設の有料渡船をはじめたことにはじまるといいます(『月島発展史』)。明治34年(1901年)、月島への交通の重要性を考慮した東京市が市営化を決め、翌明治35年(1902年)、汽船曳船二隻で交互運転を開始し、渡賃も無料となりました。月島は東京の臨海工業地帯として発展し、明治44年(1911年)には、乗客の増加に対応するために徹夜渡船が開始されました。

 その後、昭和15年(1940年)には勝鬨橋が架橋され、渡船の利用者は減少の一途をたどり、月島の渡しは廃止されることとなりました。

  平成13年(2001年)3月 中央区教育委員会

所在地 東京都中央区日本橋1-2-6(黒江屋国分ビル)

 此の日本橋の欄干の擬宝珠(ぎぼし)は萬治元年戊戌(つちのえいぬ)年(1658年)9月吉日、日本橋御大工椎名兵庫氏の作で擬宝珠(ぎぼし)には表記の通り彫印が有ります。御大工の“御”とは幕府用達の大工であったことを指します。

                 日本橋 黒江屋

所在地 東京都中央区新川2-31

     < 江 戸 港 発 祥 跡 >

 江戸時代、江戸に集まる物資は主として舟運によるものでした。関西方面をはじめ各地方から江戸に物資が集中し、日本橋、京橋地区の河岸地に陸揚げされました。幕末に横浜が国際貿易港として開港したのに対して、東京の開港は遅れ、ようやく1941年に開港の運びとなりました。

慶長年間江戸幕府がこの地に江戸湊を築港してより、水運の中心地として江戸の経済を支えていた。昭和11年(1936年)まで、伊豆七島など諸国への航路の出発点として、にぎわった。

 

 東京京橋ライオンズクラブ結成35周年記念

   平成11年(1999年)1月吉日 建立



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