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東京都中央区の歴史
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所在地 中央区銀座7-8-14

  豊岩稲荷神社

御祭神 稲荷大神(宇気母智神)

例祭日 4月15日

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豊岩稲荷神社は、江戸初期からこの地(中央区銀座7丁目8番14号)に火防神・縁結神として信仰を集め、銀座7丁目町会の守護神として、篤い信仰を集めてきた。
稲荷の神は、保食神(宇気母智神)或は倉稲魂神と称し、稲のみ魂又人間の生活に最も必要な食物を守護し給う神として、伊勢神宮の外宮、京都の伏見稲荷大社始め、全国の稲荷の御祭神として、広く信仰されている。
当社は、明智光秀の家臣安田作兵衛により祀られ、昭和の初めには歌舞伎の名優市村羽左衛門丈を始め、芸能関係者の崇敬が厚かった明治3年(1870)以降、当銀座の氏神である山王日枝神社(元官幣大社)の神職により祭祀はとり行われ、永年の宿望であった御社殿以下の御造営事業及び境内地の保全が平成5年(1993)秋、地元町会関係者及び特別崇敬者中塚成紀氏等の奉賛によりなされたのである。
 平成5年(1993)11月10日 銀座7丁目町会

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創祀は不明。明智光秀の家臣・安田作兵衛が主家の再建を願って祀ったという伝説も。昭和初期には歌舞伎の名優市村羽差左衛門ほか毛能関係者の崇敬を集めた。縁結びの神社としても知られており、多くの女性が立ち寄る。

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所在地 中央区日本橋室町4-2-12

  家内喜稲荷神社

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  家内喜稲荷神社修築寄進者名簿
株式会社エスティーシー   銀扇 泉澤
東短エイジェンシー株式会社   第一恒産株式会社
株式会社三渓洞   家田化学薬品株式会社
糸井昌二   新日本管財株式会社
王診療所   焼肉モリちゃん日本橋店
八十二銀行東京営業部   津島寛吉
株式会社川口屋 林雅一   近三商事株式会社
岩堀直子   株式会社飯田ゴム商店
室町砂場   村松洋子
村松毅   東京建物株式会社
河口株式会社   有限会社東京医科理化器械商事
佐々木印店 上原輝雄   株式会社森八室町店 古川康治郎
根元和治   住田会計事務所
金子俊彦   ヤマト運輸株式会社 本石町センター
神戸土地建物株式会社   西浦不動産株式会社
中原証券株式会社   大島俊子
高橋秀夫   日本橋 定平
西村幸男   美容室エフ 小澤
玉ゐ室町店従業員一同   日本橋室町 満留賀
有限会社西村商会   株式会社伊藤製作所
菱華産業株式会社   社団法人日本試薬協会
有限会社酒井理化   サカイビル
栄光科学株式会社   室町四丁目婦人会
株式会社三吉や   かぶき南口店
株式会社日本橋山形屋 山形幸三   室町殖産株式会社
共同施設株式会社   川妻正平
青山コーポレーション株式会社   関谷理化株式会社
室町水産   堀田丸正株式会社
有限会社斉藤コーヒー店   都圏不動産株式会社
室町薬品株式会社   三宅歯科病院
田沼孝一   三井不動産株式会社
すし好 阿部邦弘   室町大通り会
田中施設株式会社 田中正夫   亀とみ 下田豊
石三   駿河町
銀三   室町四丁目青年部
田中二郎   西村謙一   泉澤裕   田中一夫
土舘正孝   澤隆彦   加藤喜一郎   田中圭一郎
下田耕一郎   
幟の会会員一同   太陽クリーニング
 平成22年(2010)9月吉日

 


所在地 中央区日本橋小網町1~3先・日本橋蛎殻町1-1先

  行徳河岸
 かつて、箱崎町と小網町・蛎殻町の間には、運河である箱崎川が流れていました。寛永9年(1632)、南葛西郡本行徳村(千葉県市川市)の村民が小網町3丁目先の河岸地を幕府より借りうけ、江戸と行徳間で、小荷物や旅客の輸送を開始して以来、ここは行徳河岸と呼ばれるようになりました。江戸と行徳とをむすぶ船は毎日運航され、成田山新勝寺の参詣などで房総に向かう多くの人びとが、この水路を利用しました。
 平成14年(2002)3月 中央区教育委員会

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所在地 中央区日本橋人形町2-25

  末廣神社すえひろじんじゃ

 日本橋七福神 毘沙門天

祭神  宇賀之美多摩命
例大祭 5月
氏子 人形町2丁目浪花会・ 人形町2丁目二之部町会

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 末廣神社は、江戸時代の初期に吉原(当初葭原と称した)がこの地にあった当時(元和3年〔1617〕から明暦3年〔1657〕まで)その地主神産土神として信仰されていました。明暦の大火で吉原が移転してからは、その跡地の難波町・住吉町・高砂町・新和泉町の4ヶ所の氏神として信仰されていました。
 社号の期限は、延宝3年(1675)社殿修復のさい年経た中啓(翁)が発見されたので氏子の人たちが悦び祝って末廣の二字を冠したものです。


所在地 中央区日本橋人形町3-8-6

  橘稲荷神社
 このあたり江戸期に新和泉町といわれたが、将軍家御典医・岡本玄冶の邸があったことから、一帯を玄冶店と俗称した。
 当稲荷ははじめ御殿山にあったものが、のちに江戸城内へ移り、さらに玄冶に賜って当地へ移された。
 稲荷名の橘は岡本家の姓に因んだとされる。
 安政6年(1859)の尾張屋清七板古地図では、現在地よりやや北側に記されている。
 数百年に亘り、素朴な信仰の対象として土地の人々により守り継がれて来た。特定の個人や企業の所有ではなく、町のお稲荷さんとして親しまれている。
 大正以降、運よく震災・戦災を免れて来たが、老朽化の為このほど地元町民多数の浄財により再建された。
 平成2年(1990)8月吉日 橘稲荷御造営奉賛委員会


所在地 中央区日本橋人形町

  元吉原
 江戸時代の初め元和3年(1617)に葦の繁茂する湿地を埋立して造成されたのがこの土地です。
 一方、14,000余坪を堀で囲んだ遊郭は江戸一番の歓楽の地と成りました。
 しかし、明暦3年(1657)の江戸の大火で焼失した吉原遊郭は39年間この地で栄えましたが、浅草山谷へ移されました。
 後地は新和泉・住吉・高砂・浪花の4ヶ町の商業の地となり、周辺の商店と共に大いに繁昌し今日に受けつがれています。

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所在地 中央区日本橋箱崎町18 (区立箱崎公園) 

  吉田松陰像
 現在の水天宮ピットの場所が、旧東京市箱崎尋常小学校として使われていた昭和12年(1937)の末、当時6年生の児童であった岩井光子さんが病気で亡くなった。
 光子さんは成績優秀なうえ、特に吉田松陰の生き方に深く感銘を受けており、亡くなる前に自分の貯金で、学校内に吉田松陰の銅像を立ててくれるよう両親に遺言を残した。
 両親は生活が苦しい中でこの遺言を実現し、昭和13年(1938)3月22日に除幕式が盛大に催された。当時この話は教育美談として東京日日新聞に表彰され、時の文部大臣や東京市の関係者など多数が参列した。吉田松陰像は竹山蘭山が製作するとともに、話に感銘を受けた当時の海軍大将高橋三吉が台座の「松陰先生」の文字を揮毫した。
 昭和19年(1944)4月、小学校は全自動が戦火を逃れるため疎開したのち廃校となったが、吉田松陰像は同じ場所で日本橋箱崎町の変遷を見守り続けてきた。
 平成22年度に都立日本橋高校の移転と箱崎公園改修工事にあわせ、吉田松陰像をこれまで以上に町の方々に親しんでいただくため、この場所に移設することとなった。
 平成23年(2011)3月

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所在地 中央区佃2-17-15 (月島機械株式会社)

  黒板伝作胸像
本胸像は先生の知己縁故者により昭和11年(1936)此所に建設された銅像が不幸大東亜戦争の犠牲となり台石を残すのみとなったので昭和卅年(昭和30年)会社創立50周年を期し胸像として再建しました
 前社長 黒い多伝作氏
 銅像再建委員会有志

  


所在地 中央区日本橋堀留町2-1-13
 
  三光稲荷神社

祭神 三光稲荷大神
    田所稲荷大明神

 大正13年(1924)区画整理にて旧長谷川町と旧田所町が合併して現在の堀留町2丁目になっていますので、田所大名神さまも当神社に奉祀されています。

創建
 中村座に出演していた大阪の歌舞伎役者 関三十郎が伏見より勧請したと伝わる当神社は「江戸惣鹿子」元禄2年(1689)には記載があるところから、それ以前と推測される。

拝殿
 右上の額「日本橋區長谷川町守護神 三光稲荷神社」は神田神社社司 平田盛胤氏の揮毫である。



江戸時代
 近隣には吉原や歌舞伎小屋の中村座市村座、更には操り人形や人形浄瑠璃の小屋等があり、それを背景とした(江戸落語)に「三光新道」や「三光神社」が登場するところとなった。
 古くから娘、子供、芸妓等の参詣するものが多く、ことに猫を見失ったとき立願すれば霊験ありと云う。「三光稲荷神社参道」と銘ある石碑や境内にある猫の置物は猫が無事に帰ったお礼に建立、奉納された。


所在地 中央区入船1-1 (区立桜川公園)

  八丁堀(桜川)跡
 江戸時代初期、京橋川の下流から隅田川へと流れ込む通船のための水路が開削され、この堀割を「八丁堀」と称していました。
 八丁堀の開削年や名称の由来には諸説ありますが、『京橋区史』には、南八丁堀1丁目と本八丁堀1丁目の間より東流し、桜橋、中ノ橋、稲荷橋を過ぎ亀島川に会いして海に入る。慶長17年(1612)に漕運の利を謀りこれを鑿つ、当時海口より凡そ八丁(約870メートル)なるを以ってこの名ありと書かれています。
 なお、地域名としての八丁堀は、堀を境に北側の地域一帯を本八丁堀(北八丁堀)、南側の河岸地一帯を南八丁堀と称し、広範囲にわたっていました。



 通船堀としての八丁堀は、明治になって「桜川」と改称され、関東大震災後の復興事業を経て新桜橋・桜橋・中ノ橋・八丁堀橋・稲荷橋が架けられました。
 昭和35年(1960)から昭和41年(1966)頃には、中ノ橋から稲荷橋までを残して桜川の上流が埋め立てられ、その後、桜川は完全に埋め立てられました。
 埋立地の一部は、桜川公園として整備され、この辺りに堀割があったことをしのばせています。
 平成17年(2005)3月 中央区教育委員会


          『中央区の橋・橋詰広場ー中央区近代橋梁調査ー』


所在地 中央区明石町6-24

  女子聖学院発祥の地碑
 この地は女子聖学院発祥の地、もと築地居留地14番であった。
 そこに建つ14番館が、宣教師ジョン・マッケレフ先生の居宅だった。1905年、米国のクルスチャン・チャーチ(ティサイプルス・オブ・クライスト)の宣教師バーサ・F・クローノン女史が借り受け婦人伝道師の養成を始めた。開校式は同1905年11月1日教師3人に生徒10人であった、という。今日では幼稚園から大学院までを擁する総合学園になっている。
 学校法人 聖学院

 


所在地 中央区明石町10 (聖路加国際病院)

  立教女学院 築地居留地 校舎跡記念碑
 立教女学院は1877年キリスト教に基づく女子教育を目的に、米国聖公会により派遣されたC.M.ウイリアムズ主教によって、湯島に創立された。1882年立教女学院は築地居留地に移転して、新校舎を建設し、1923年の関東大震災までこの地にあってその教育事業を継続した。立教女学院のキャンパスは現在久我山にある。
 
St.Margaret's School was founded in 1877,with the aim of providing higher education for women based on Chiristianity.The school was started by Bishop Channing Moore Williams,who was sent as a missionary from the Episcopal Church in the United States,and was originally located in Yushima.
In 1882,the school mobed to the Tsukiji Foreign Settlement and constructed new school buildings St.Margaret's continued its mission of service through education at this location until the Great Kanto Earthquake of 1923.
The St.Margaret's campus is presently located in Kugayama,Tokyo.
 2007年11月1日 学院創立130周年 学校法人立教女学院


 
      初代の立教女学院校舎 1884年に完成 明治17年(1882)より明治30年(1923)迄


所在地 中央区日本橋人形町1-13

日本橋七福神 布袋尊 

  茶ノ木神社(茶の木神社)〔佐倉藩中屋敷跡〕

 「お茶ノ木様」と町内の人に親しまれている茶ノ木神社の御祭神は倉稲短市井大神(ウカノミタマノオオカミ)で伏見系の稲荷様である。
 昔この土地は徳川時代約三千坪に及ぶ下総佐倉の城主大老堀田家の中屋敷であって、この神社はその守護神として祀られたものである。
 社の周囲に巡らされた土堤芝の上に丸く刈り込まれた茶の木がぐるりと植え込まれ、芝と茶の木の緑が見事であったと伝えられている。
 その中屋敷内は勿論のこと周囲の町方にも永年火災が起こらなかったため、いつのころから誰言うとなく火伏の神と崇められ、堀田家では年1回初午祭の当日だけ開門して一般の参拝を自由にされた由「お茶ノ木様」の愛称で町の評判も相当であったと伝えられている。
 また、新たに昭和60年(1985)布袋尊を御遷座合祀申し上げて日本橋七福神詣りに加わることになった。
 布袋尊は実在した中国唐代の禅僧で、阿弥陀菩薩の化身といわれている。福徳円満の相が喜ばれ、世の清濁を併せ呑む大きな腹をして袋の中にいっぱいの宝物を入れ、人々に福運大願を成就させる和合成就の神様として崇められている。


所在地 中央区日本橋人形町2-15-2 (松島ビル)

 日本橋七福神 大国神   松島神社

鎌倉時代の元享(1321)以前、この辺りが入り海であった頃小島があり諸神を勧請し、夜毎掲げる燈火を目標に舟人が航海の安全を得たと伝えられる。島内松樹鬱蒼たるにより人々松島稲荷大明神と唱え、正徳3(1713)新町が開設される時に社号に因んで町名を松島町と称した。当時付近を埋め立て武家屋敷を造営するために、日本各地から技をもつ人々が集められそのまま住まいを構え町の中心に位置した松島稲荷に、それぞれの故郷の神々の合祀を頼んだために他社に比べ御祭神が14柱と多い。
 明治7年4月2日松島稲荷神社の名称を以って村社に列格される。
 大正5年6月10日松島神社と改称。
 昭和8年2月1日都市計画法の実施に伴い蛎殻町4丁目に改称せられ、その為松島町は消滅する。
  御祭神
稲荷大神・伊邪那岐大神・伊邪那美大神・日前大神(天照大神)・北野大神(菅原道真公)・手置帆負神・彦狭知神・淡島大神・八幡大神・猿田彦神・琴平大神・天日鷲神(大島大神) 大宮龍売神(おかめさま) 大国主神(だいこくさま)

 


所在地 中央区入船3-2-10 (アーバンネット入船ビル)

  靴業発祥の地碑
 明治3年(1870)3月15日西村勝三が伊勢勝・造靴場を創建したのは旧築地入船町5丁目1番のこの地であった。勝三は佐倉藩の開明進取の風土に育ち時の兵部大輔大村益次郎の勧めと、藩主堀田正倫並びに渋澤栄一の支援を得て靴工業を創成しこれを大成した。斯くてこの地は日本に於ける製靴産業の原点であるのでこゝに建碑事績を記す。
 昭和60年(1985)3月15日 日本靴連盟   題字堀田正久 書

 


所在地 中央区日本橋茅場町3-13

  純子稲荷神社

御鎮座
 元和2年(1616)11月20日
再建立御鎮座
 昭和48年(1973)4月20日
神璽
 伏見稲荷大社
御神名
 純子大神
御祭神
 豊受大神
 宇迦之御魂大神
 佐田彦大神
 大宮能売大神
 田中大神
 四之大神
御神徳
 精神、生命、生活、生業、生産
御神威
 心身健全、家内安全、五穀豊穣、商売繁昌、福徳円満、芸能成就、往来安全
例祭日
 2月初午の日
 4月、11月御鎮座の日

  元文2年(1737)11月20日

 


所在地 中央区日本橋本石町4-4-26

東京都選定歴史的建造物
 中央区立常磐小学校

設計者 東京市
建築年 昭和4年(1929)



 常磐小学校は明治6年(1873)に開校し、現在使用されている建物は、関東大震災を機に、耐震耐火性の高い鉄筋コンクリート造の校舎として建て替えられたものである。
 震災復興期の小学校建築には、装飾性を加味したスタイルと、機能を重視したインターナショナル・スタイル(コクサイ建築様式)の二つの傾向があったが、この校舎は前者の代表作である。
 アーチのついた出入口、半円形の窓とその窓台、半円形の庇など幾何学的な装飾が特徴で、建築様式としては表現主義と呼ばれる。
 ビルが林立する中で、今なお往時の景観を残している。
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