東京都中央区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 東京都中央区日本橋3-7 (中央区民文化財) 秤座は、江戸幕府の認可を受けて、全国の秤の量目の統一を図るため、秤の製造、検査、販売等の権利を独占した御用商人の事業所です。江戸と京都の2か所に置かれ、江戸の秤座は守随(しゅずい)家が東国33か国を管轄しました。 守随家は、もと甲斐の武田家に仕えた秤士で、のちに徳川家康に仕え、江戸開府と共に江戸に出て、徳川家領であった関八州の秤の責任者に任命されました。承応2年(1653年)に幕府が公式に秤座を定め、事業所は初め、京橋具足町(京橋3丁目)に置かれましたが、その後各地を移転し、天保13年(1842年)、日本橋箔屋町の現在地に移転しました。 明治8年(1875年)、明治政府の度量衡取条例の施行によって、秤座は廃止されました。 江戸時代の度量衡に関する重要な史跡として、中央区民文化財に登録されています。 PR
国指定重要文化財
日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603年)と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする5街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。 この橋は、江戸時代に松平越中守の屋敷前に架けられ「越中橋」と呼ばれていましたが、明治維新で江戸幕府の名残りである「越中」の名が取られ「久安橋」と改称されました。「久安」の名は、昔この付近に御坊主久安の拝領地があったことに因んで付けられたとされています。 現在の橋は、関東大震災の復興事業により、八重洲通りの造成と共に、この位置に架け替えられたもので、設計にあたり皇居に近く東京駅を正面に臨む場所柄を考慮して、石を多く使用し重みの感じられる「アーチ橋」にしたものと思われます。 昭和39年(1964年)に、楓川が埋め立てられ、高速道路が開通したことで、この橋の周辺の景観は架設当時とは大きく変わり、橋の象徴である親柱が取り外されたこと等から、利用者にとっても「橋」としての印象がうすい存在となっていました。 中央区では平成3年度に、自然石を使い、デザインに「アーチ」の曲線を取り入れた橋梁の環境整備を行ない、人々に親しまれる橋として装いを新たにしました。 ここは、明治4年(1871年)3月1日(4月20日)日本の近代的郵便制度は、前島密の創意により、東京~大阪間で始まり、この地に駅逓司(現在の日本郵政公社)と東京の郵便役所(四日市郵便役所とも呼ばれ、現在の東京中央郵便局)が置かれたところです。 所在地 中央区日本橋1-4 (東京都指定旧跡) 江戸時代のはじめ、下町一帯の井戸は塩分を含み飲料に適する良水が得られず付近の住民は苦しんでいました。 正徳元年(1711年)、白木屋2代目当主の大村彦太郎安全は私財を投じて井戸掘りに着手しました。翌二年、たまたま井戸の中から1体の観音像が出たのを機に、こんこんと清水がわ湧き出したと伝えられています。以来、付近の住民ならず諸大名の用水ともなって広く「白木名水」とうたわれてきました。 白木名水は湧出してから数100年の時を経て消失しましたが、江戸城下の歴史を理解する上で重要な遺跡です。この「名水白木屋の井戸」の石碑は江戸時代の呉服商を継いだ白木屋デパート、東急百貨店と続く長い歴史の後に、日本橋1丁目交差点角にあったものを平成16年(2004年)ここに移設再現したものです。 (中央区民文化財) 開運橋は、楓(もみじ)川が日本橋川に合流する入り口に架けてあった橋です。江戸時代初期には高橋と呼ばれ、橋の東詰に御船手頭向井将監(しょうげん)忠勝の屋敷が置かれていたので、将監橋とか海賊衆ともいっていたためです。 橋は、明治維新になり、海運橋と改称され、明治8年(1875年)に、長さ八間(約15m)、幅六間(約11m)のアーチ型の石橋に架け替えられました。文明開化期の海運橋周辺は、東京の金融の中心として繁栄し、橋詰にあった洋風建築の第一国立銀行とともに、東京の新名所となりました。 石橋は、関東大震災で破損し、昭和2年(1927年)鉄橋に架け替えられました。このとき、二基の石橋の親柱が記念として残されました。鉄橋は、楓川の埋立てによって、昭和37年(1962年)撤去されましたが、この親柱は、近代橋梁の遺構として、中央区民文化財に登録されています。 所在地 中央区日本橋1丁目4番と5番の間の小道 (日本橋コレド裏) 江戸っ子夏目漱石は、ロンドンを舞台にした作品にも、日本橋を言挙したほどだ。 青春小説 「三四郎」、 倫理探求の名作「こころ」には、ここの路地の寄席や料理屋が描かれている。 所在地 中央区日本橋・中央区八重洲・中央区日本橋室町・中央区日本橋本石町 このあたりは、江戸時代より我が国の商業・経済の中心地として、栄えてきました。 この橋は、日本橋から一石橋までの日本橋川右岸地域が、西河岸町という地名であったことから”西河岸橋”と名付けられたものです。 初代の橋〔明治24年(1891年)架設〕は、弓弦形ボウストリングトラスという、当時最新式の鉄橋でした。関東大震災(1923年)により被害を受けたこの橋は、大正14年(1925年)に現在の橋に架け替えられました。 中央区では、架設後65年を経過したこの橋を平成2年度において、痛んだ部分を修復し、さらに伝統的な木造建築様式の木組みを採りいれた意匠で整備しました。
形式 3径間連続鋼構桁橋 橋長 52.0m 有効幅員 11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2) 橋下 日本橋川 着工 大正13年(1924年)12月 竣工 大正14年(1925年)8月 施工者 東京市 所在地 中央区日本橋1-4 COREDO日本橋(コレド日本橋) 白木屋は現在、COREDO日本橋(コレド日本橋) 所在地 中央区日本橋・中央区日本橋兜町 この石は、もと小判鋳造金座後藤家の別荘にあった佐渡の赤玉石であります。 江戸末期、たまたま同家に招かれた榮太樓初代細田榮太郎は、本石に魅せられ、その別荘ごと譲り受け今日に至っています。 佐渡の赤玉石は赤味が強く、その光沢は他に類を見ない日本の銘石の一つでありますが、この石のように人手を加えず姿かたち・艶のよいものは極めて少なく、好事家の間に「榮太樓の赤玉石」として知られています。 中央区は 昭和63年(1988年)に 世界の恒久平和と人類の永遠の繁栄を祈念し『平和都市宣言』をいたしました。 段上の三角形のアーチは この宣言を記念するモニュメントとして設置したものです。 この平和の鐘は オランダ製で26個のベルによって四季おりおりのメロディを奏でます。 設置 平成元年(1989年)3月15日 東京都中央区
所在地 中央区日本橋3丁目・京橋1丁目先 日蘭修好380周年記念碑 日本とオランダの関係は、ウイリアム・アダムスやヤン・ヨーステンらの来航によって始まった。慶長14年(1609年)平戸にオランダ商館が設立され(後に長崎に移る)、鎖国時代の日本のヨーロッパに対する唯一の窓口になり続けた。オランダがもたらした学術・文物が日本に与えた影響は大きく、明治以後の日本近代化の大きな礎になった。 とくに中央区とオランダとの歴史的な関係も深く、日蘭修好380年を記念してここにモニュメントを設置し、永久にこの友好を保存するものである。 1989年4月200日 東京都中央区
二つの羅針盤の輪が天球儀の形に組み合わされています。 羅針盤は、当時世界をリードしていたオランダの航海技術の象徴であり、また天球儀は”時”の象徴でもあります。 左側の頭部がヤン・ヨーステん像、右側の帆船が日本漂着の際、彼が乗り組んでいたとされるオランダ船リーフデ号です。中央上部には当時のオランダの国策会社東インド会社のマークが置かれています。中央下部の図柄は、古地図で方角を示すのに使われたもので太陽をモチーフにしています。四隅は波=海を図案化したもので、これも古地図にヒントを得ています。
< ヤン・ヨーステン(1557頃~1623) > 慶長5年(1600年)、オランダ船リーフデ号でウイリアム・アダムスらと豊後に漂着した。そのまま日本に留まり、徳川家康の信任を得て、外交や貿易について進言する役目についた。彼の江戸屋敷現在の和田倉門~日比谷公園間の内濠の沿岸に与えられ、この地が彼の名にちなんで八代洲河岸(やよすがし)と呼ばれて、明治まで続いた。現在は中央区八重洲としてヤン・ヨーステンに因む地名が残っている。 ヤン・ヨーステン像:オランダ人 L.P.プラート作
所在地 東京都中央区日本橋2-4-1
竣工 昭和8年(1933)
高島屋は明治23年(1890)に東京へと進出してきた呉服店ですが、元は天保2年(1831)、古着木綿商として京都で創業し、呉服商へと転じた老舗です。
所在地 中央区日本橋2-3-10 (丸善) ハヤシライスの生みの親(早矢仕有的) ハヤシライスを生み出したのは、丸善の創業者・早矢仕有的(はやしゆうてき)と言われています。丸善の百年史には、「幕末か明治の初年のことであろう。友人が訪問すると、有的は有り合わせの肉類や野菜類をゴッタ煮にして、飯を添えて饗応するのが常であった。そこから人々はこの料理をハヤシライスといい、ついにはレストランのメニューにまで書かれるようになった」という一節があります。こういった内容から当時すでに商社を経営していて好奇心旺盛な早矢仕が友人を驚かせようと、今のハヤシライスに近い料理をふるまっていたと考えられます。 文明開化と丸善 丸善は福沢諭吉の門下生であった早矢仕有的により、明治2年(1869)に商社として誕生しました。創業にあたって架かれた「丸屋商社之記」を開くと、「日本全国ノ繁盛ヲ謀リ同国人ノ幸福ヲ助ケ成サヾル可ラズ」という力強い言葉が目に飛び込んできます。当時の若々しい日本の意気込みを良く表していると言えましょう。 丸善創業者 早矢仕有的 |
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