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東京都中央区の歴史
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所在地 中央区築地7-19 (中央区立あかつき公園)

 私たちの住む地域は記録によれば、今から300余年前の明暦3年(1657)江戸大火の焼土をもって木挽町海岸を埋めたて約4年後の寛文初年(1662)に造築が完成されたと伝えられており以来幕末にいたる間、町の大部分は武家屋敷で周囲は築地川に囲まれた静かな環境であったといわれています。過ぎし日の歴史は、私達に幾多の史実を語り伝え、なかでも日本海軍の発祥といわれる安政年間における講武所の設立や明治の文明開化期における外人居留地の出現にわが国近代化に大きな影響を与えました。とくに明治元年(1868)に建設された築地ホテル館は当時の人々に東京の新名物として珍しがられその跡地には海軍造兵廠、海軍経理学校などが建てられ、永らく土地の人々に親しまれておりました。水清き隅田川には当時月島との交通機関として、勝鬨の渡し 月島の渡しなどが往き交う人々をのどかに運び、その後大正12年(1923)の関東大震災により町の様相は一変すると、ともに、日本橋から魚市場が隣接地に移ってくるなどで町は休息に商業の地域として栄えはじめました。昭和7年(1932)に南小田原町1、2、3、4丁目南本郷町、南田町、上柳原町の7ヶ町は小田原町1、2、3丁目と変り昭和41年(1966)にはさらに築地6、7丁目と町名が変更されました。明石町は藩洲赤穂明石の漁師が移り住んだとかあるいは瀬戸内海の明石浦の風景に似たところから名づけられたと伝えられておりますが、幕末から明治にかけて、日本近代の文教発祥の地として史実多き地であります。このようにして、私たちの住む市域は、幾多の星霜を圣て現在に至っているわけであります。ここにあかつき公園完成を記念するとともに町の歴史を構成に残すため記念碑を建設したものであります。

 昭和46年(1971)11月吉日
  築地6、7丁目 明石町 記念碑建設委員会建之
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