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東京都中央区の歴史
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所在地 中央区東日本橋2-26

 明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。その際このあたりで逃げ場を失って焼死する者が多数出た。このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた。隅田川は当時武蔵下総両国の境界をなしていた。
 また延焼防止のため橋に向かう沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした。やがてこれが広小路となり、江戸三大広小路の一つとして上野、浅草に並び称せられる盛り場に発展した。
 
明治維新の頃、ここには新柳町、元柳町、横山町、吉川町、米沢町、薬研堀町、若松町があったが、昭和7年(1932年)合併して日本橋両国となり現在に及んだ。明治維新後100年を経た今日、まちの近代化はめざましく、広小路や両国の名も過去のものとして忘れ去られようとしているが、300年前火除け地が設定され、これが広小路に発展して行った事跡のなかには、先人の英知と努力が偲ばれてまことに意義深いものがある。
 
ここに由緒ある両国広小路の旧跡を永く保存するため、町会の総意により、この碑を建てた。
 昭和44年(1969年)11月3日 中央区日本橋両国町会 建碑

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