東京都中央区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 中央区日本橋蛎殻町2-10-6 蛎殻町公園の由来 この蛎殻町辺は、江戸時代の切絵図によると周囲を堀割で囲まれた武家地で、大名の下屋敷が建ち並ぶ静かな落ち着いた町並みであったと思われます。 蛎殻町公園のあるこの場所も、江戸時代、松平三河守(津山藩主)の下屋敷があったところで、そのご京都出身の豪商杉村甚兵衛氏の屋敷となり、現在公園内にある大イチョウも、当時、かなりの大木として育っていました。 大正12年(1923)の関東大震災の時には、近所の人達がその広い庭園内に難を逃れて助かった話しも伝わっています。その後、震災復興御計画により、蛎殻町公園として整備され、昭和6年(1931)4月に開園しました。 このたび、有馬小学校と蛎殻町公園を改修整備するにあたりこの地域の歴史を思い起こさせる江戸情緒のある築地塀と門構えを造って町並み景観に特色をもたせ、往時をしのぼうとするものです。 平成元年(1989)4月 中央区土木部公園緑地課 所在地 中央区日本橋蛎殻町2-10-6 (蛎殻町公園) 遺跡から出土した大名庭園の景石 景石は、水天宮駅前に隣接する蛎殻町1丁目遺跡で発掘されたものです。 蛎殻町周辺は、江戸時代、大名や旗本の屋敷が集まっていたところで約300年前に屋敷を構えていた大名家の庭園内池の景石と思われます。 当時、遺跡地を拝領していた大名は、上野国前橋藩15万石の酒井雅楽頭で、江戸時代初頭から延宝元年(1704年)まで屋敷を構えていました。 その後、伊予大洲藩6万石の加藤遠江守が拝領し、延宝年間(1704年~1711年)屋敷を構えていました。 所在地 中央区日本橋蛎殻町2-10-6 (蛎殻町公園) 少年の像 蛎殻町公園は、関東大震災後に帝都復興計画公園として昭和6年(1931)に現在の有馬小学校の敷地に設置されました。 その後、地元の皆様に親しまれてきましたが、昭和62年(1987)に、有馬小学校が改築され、それにあわせて公園も改修しました。 ここにその寛政を記念すると共に子供達の健やかな成長を願って、彫刻家 佐藤忠良氏の作品「少年」の像を設置するものであります。 昭和63年(1988)3月 中央区公園課 『波除獅子』 流 政之 作 所在地 中央区築地1-13-10 (Xymax本社前) 由来 この波除獅子は、世界有数の彫刻家、流政之先生の作であります。 波除獅子の命名は、この地、築地の守護神であります波除稲荷神社にい由来しております。 今から400年程前、築地一帯は、一面の海でした。慶長江戸図には、今の馬場先門あたりまで汐入を画き、八重洲海岸に舟の役所がありました。 文禄元年(1592)江戸城西丸の増築にお堀の揚土を以て、日比谷入江を埋め始めたのが、江戸東南海面埋立の始まりです。 その後着々と埋立の工事が進みましたが、この築地海面だけは工事困難を極めたと言われます。堤防を築いても築いても激浪にさらわれてしまうからです。 しかし、万治年間(1660年頃)御神徳あらたかなる稲荷大神の御神体をお祀りして、波除の尊称を奉ってからは波風もぴたりとおさまり、工事はやすやすと進んだとのことです。 この波除獅子が、波瀾含みの日本経済を鎮めてくれますよう祈願しております。 所在地 中央区築地7-19 (中央区立あかつき公園) 私たちの住む地域は記録によれば、今から300余年前の明暦3年(1657)江戸大火の焼土をもって木挽町海岸を埋めたて約4年後の寛文初年(1662)に造築が完成されたと伝えられており以来幕末にいたる間、町の大部分は武家屋敷で周囲は築地川に囲まれた静かな環境であったといわれています。過ぎし日の歴史は、私達に幾多の史実を語り伝え、なかでも日本海軍の発祥といわれる安政年間における講武所の設立や明治の文明開化期における外人居留地の出現にわが国近代化に大きな影響を与えました。とくに明治元年(1868)に建設された築地ホテル館は当時の人々に東京の新名物として珍しがられその跡地には海軍造兵廠、海軍経理学校などが建てられ、永らく土地の人々に親しまれておりました。水清き隅田川には当時月島との交通機関として、勝鬨の渡し 月島の渡しなどが往き交う人々をのどかに運び、その後大正12年(1923)の関東大震災により町の様相は一変すると、ともに、日本橋から魚市場が隣接地に移ってくるなどで町は休息に商業の地域として栄えはじめました。昭和7年(1932)に南小田原町1、2、3、4丁目南本郷町、南田町、上柳原町の7ヶ町は小田原町1、2、3丁目と変り昭和41年(1966)にはさらに築地6、7丁目と町名が変更されました。明石町は藩洲赤穂明石の漁師が移り住んだとかあるいは瀬戸内海の明石浦の風景に似たところから名づけられたと伝えられておりますが、幕末から明治にかけて、日本近代の文教発祥の地として史実多き地であります。このようにして、私たちの住む市域は、幾多の星霜を圣て現在に至っているわけであります。ここにあかつき公園完成を記念するとともに町の歴史を構成に残すため記念碑を建設したものであります。 昭和46年(1971)11月吉日 築地6、7丁目 明石町 記念碑建設委員会建之 所在地 中央区明石町6-26 青山学院は、米国メソジスト監督協会の宣教師により創立された3つの学校を源流としています。 「海岸女学校」は、ドーラ・E・スクーンメーカーによって創立された源流の1つ「女子小学校」(1874年麻布に開校)が「救世学校」を経てこの地で大きく発展したもので、明治の女子教育に多大な足跡を残すとともに、青山学院の礎となりました。 当時の海岸女学校 所在地 中央区築地6-20 (築地市場駐車場) 築地ホテル館跡 明治元年(1868)に建てられた外国人用旅館で、日本人による本格的洋風建築として新東京名物にあげられました。2階建て、アーチ式屋根やバルコニーを備え、各部屋に暖炉があり、玉突き場、食堂を設置してありました。明治5年(1872)惜しくも全焼しました。 中央区観光協会 所在地 中央区明石町14-19 (水たき 治作) 江戸幕府は、慶応3年(1867年)に、江戸築地鉄砲州明石町の一帯を外国人居留地と定め、この地に税関業務等を行う運上所を設置しました。 これが、東京税関の始まりです。 所在地 中央区新富1-7-1 新富 消防地蔵尊 縁起 昭和16年(1941)2月13日の深夜、この地に在った家具製作所から出火しました。 折からの強風に煽られ、火は7棟・170余坪(567㎡)を焼尽くしました。猛火の中を、逃げ遅れた女子従業員を救出しに入った少年を含め、3名の若い命が失われました。 翌17年(1942)4月、跡地に京橋消防署新富町出張所が設立され、地域防災の任にあたりました。 然しながら、出勤した消防隊員に負傷者が続発したり、又「非番なのに望楼へこつこつと登る足音がする」とか「夜中に少女がさめざめと泣く声が聞こえる」などの噂が広まりました。 昭和28年(1953)、消防署と協議し、町会役員・町内有志の発意と芳志により、此処に殉難者の鎮魂と地域の安全を祈願する(新富消防地蔵尊)が建立されました。 以後、さしたる災害もなく、平成に入り、競売消防署の新富町出張所はその任を終えましたが消防地蔵尊はそのまま存続し、昔を知るお年寄りの他、各種の願い事を祈願する人々の参詣も多く、今日に至っております。 平成18年(2006)11月吉日 東京都中央区新富町 所在地 中央区銀座3-14-15 宝珠稲荷神社の由来 宝珠稲荷神社は1615年の頃三河の国深溝の領主板倉内膳匠重昌の江戸屋敷内に家内安全火除の神として祭神せられたるものなり 内膳匠重昌は京都所司代及江戸町奉行として今名高かりし板倉勝重の次男として1588年後陽成天皇の御代天正13年の頃の生れである 重昌は武勇に富み敬神の念厚く大阪冬の陣島原の乱等に追討軍今として鎮台に務めたるも不幸にして島原に於て年令50才にして戦死したるものなり 時の将軍は家光であり第110代後光明天皇の御代である内膳匠の兄周防の守重宗は下總の国関宿の城主なり 年経て1760年宝暦年間岩見の国津和野の城主亀井家に譲渡せられたるものなり 明治の維新に於ける亀井滋玄の功積は大鼓稲荷と共に有名なり 更に大正7年(1918)岡山の岡崎家に売却されたるも爾来本神社は敷地と共に地元木挽町3丁目氏子に寄進せられ1950年地元氏子有志相計り隣接地を買収し社殿及社務所を建設して今日に至るものなり 1972年5月 宗教法人 宝珠稲荷神社 東京都中央区銀座3丁目東町会 所在地 中央区日本橋2-3-10 (丸善) ハヤシライスの生みの親(早矢仕有的) ハヤシライスを生み出したのは、丸善の創業者・早矢仕有的(はやしゆうてき)と言われています。丸善の百年史には、「幕末か明治の初年のことであろう。友人が訪問すると、有的は有り合わせの肉類や野菜類をゴッタ煮にして、飯を添えて饗応するのが常であった。そこから人々はこの料理をハヤシライスといい、ついにはレストランのメニューにまで書かれるようになった」という一節があります。こういった内容から当時すでに商社を経営していて好奇心旺盛な早矢仕が友人を驚かせようと、今のハヤシライスに近い料理をふるまっていたと考えられます。 文明開化と丸善 丸善は福沢諭吉の門下生であった早矢仕有的により、明治2年(1869)に商社として誕生しました。創業にあたって架かれた「丸屋商社之記」を開くと、「日本全国ノ繁盛ヲ謀リ同国人ノ幸福ヲ助ケ成サヾル可ラズ」という力強い言葉が目に飛び込んできます。当時の若々しい日本の意気込みを良く表していると言えましょう。 丸善創業者 早矢仕有的 所在地 中央区日本橋兜町15-18 創立明治6年(1873)3月 第一番官立小学 阪本学校 中央区立阪本小学校は、明治4年(1871)の文部省設置及び明治5年(1872)の「学制布告」により、明治6年(1873)3月、「第一大学区 第一中学区 第一番官立小学 阪本学校」として創立、明治6年(1873)5月7日に開校式が挙行された。 我が国の公立学校の創生期において「一、一、一」を冠した小学校は日本中でも阪本小学校だけであり、「一番学校」としての伝統と歴史を引き継いでいる。 明治28年(1895)に附属幼稚園が開園された。 現校舎は、細川藩下屋敷跡に立地。 大正12年(1923)関東大震災後、昭和3年(1928)3月に落成した。 尚 文豪・谷崎潤一郎、本宮内大臣・石渡荘太郎、元一橋大学長・山中篤太郎、歌舞伎名優・左団次、桶屋六左衛門ほか、多数を輩出している。 中央区立 阪本小学校 学制布告(明治5年〔1872〕8月) 全国を8大学区に分別、各大学区に1本部、各大学区を32中学区、各中学区を210小学区に分別(後に、改訂) 第1大学区:東京・関東地方・山梨・一部静岡 第2大学区:愛知・岐阜・三重・一部静岡 第3大学区:石川・福井・富山・一部長野・岐阜 第4大学区:近畿地方・岡山・一部四国地方 第5大学区:中国地方・一部四国地方 第6大学区:九州地方 第7大学区:新潟・長野・山形・一部福島 第8大学区:東北地方 所在地 中央区銀座4-6 (三越銀座店屋上) 銀座出世地蔵尊の縁日といえば、その賑わいは大変なもので、明治・大正・昭和の初期にかけて夜店とともに銀座を代表する風俗であり、銀座について書かれた書物にもよく触れられ、その様子をうかがい知ることができます。 地蔵の由来について、明治9年(1876)7月22日の『郵便報知』には「銀座3丁目の横町に此程流行する地蔵尊ハ去る文久元酉年7月18日三十間堀壱丁目六番地先き古土蔵取繕の節同所鳶頭田中善太郎が地中より堀出し・・・」とありますが、詳しくは不明な点が多く、また、「出世地蔵」という名称のいわれも諸説あって、その時期についても不詳です。 この銀座出世地蔵尊は、時代の変遷のなかで煉瓦街や夜店が失われた現在の銀座において、明治からの面影を伝える貴重なもので、中央区民有形民俗文化財に登録されています。 平成7年(1995)3月 中央区教育委員会 SHUSSE JIZO(Ginza Guardian Deity) Early in the Meiji era(1868~1912),this guardian deity was unearthed in this area. It is called "Jizo",which is a stone statue of the divine image of God(usually a childs gentle face). It is said that this Jizo was worshipped by many people who leved in the Ginza area. This Jizo was places here in 1968 when the stone was renovated and symbolizes luck,success in lefe,long life and prosperity in buiseiness. We hold memorial services on the seventh day of each month.All new worshippers are welcome. 明治初年、三十間堀川の開さく中、地中より、地蔵菩薩の石像を発掘、世に出る。これが出世地蔵の由来。御利益は祈願して成就せざるはなしといわれている。 所在地 中央区銀座4-6 (三越銀座店屋上) 弘法大師の建立と伝えられ、守迦之御魂命をまつる。 文和年間に社殿再建の折、白狐が御神体を三度めぐったと言う故事により「みめぐり」と呼ばれる。 尚、三井家(三越の前身)の守護神として三越本店、屋上に祭られ、又御神体は向島言問橋近くの御本社に安置されている。 MIMEGURI SHRINE It is said that this shrine was built by Kobo Daishi,a great teacher in Japan. The original shrine is to be found neat to Mukojima Kototoi bridge. Mimeguri means' circle three times',folklore tells us that a holy white fox circled this shrine three times during the ceremony of reconstruction,in the year 840. Now this shrine is dedicated to the God of the Mitsui family (founders of Mitsukoshi). You will find the same type of shrine on the roof of all Mitsukoshi stores. This shrine is said to bestow good luck and to grant the wishes of all that worship here. 所在地 中央区築地1-13 (区立築地川銀座公園) 名誉セラピードッグ認定1号犬 名犬チロリ記念碑 捨て犬チロリは、子犬たちと共に殺生処分寸前を助けられ、後にセラビードッグ(動物介在療法)の代表犬として全国で活躍し多くの高齢者や障害者に大きく貢献しました。 その無償の愛情を捧げる姿は人々に生きる勇気と病気回復への希望を与えました。この1頭の捨て犬の社会福祉への功績は犬史に残ると共に日本の動物愛護法に多大な影響をもたらせました。 ありがとうチロリ.......2006.3.16永眠 国際セラピードッグ協会 大木トオルPh.D. 所在地 中央区日本橋小伝馬町19-4 小伝馬町3丁目の守護神である。 「竹森神社」は、江戸時代よりこの付近に竹やぶが多く、竹につながる町、竹職人の町ともいわれ、竹藪にちなんで竹森神社としたと言われている。 神体は伏見稲荷からもらいうけ、俗に「江戸七森」の一つに数えられて、江戸市中、数多い稲荷神社の仲で由緒深いものとされている。 江戸七森 「椙森」すぎのもり 堀留 「烏森」からすもり 新橋 「初音森」はつねもり 馬喰町 「柳森」 柳原土手 「あずまの森」 向島 「笹森」ささのもり 谷中 「竹森」 小伝馬町 所在地 中央区京橋1-1-1 尾台榕堂之碑 尾台榕堂(1799~1870)は幕末に活躍した寛保の名医。越後魚沼郡中条村(現在新潟県十日町市中中条)の医師小杉家に出生。名は元逸、字は士超、通称は良作、号は榕堂また敲雲。16歳で江戸に出、尾台浅岳に医学を、亀田綾瀬に儒学を学ぶ。36歳で師浅岳の家を継いで尾台姓を称し、65歳のとき将軍徳川家茂に単独拝謁。この地(北槇町)に居住して医療活動を行い、当代屈指の名医として世に謳われた。著書は類聚方広義・方伎雑誌ほか多数あり、現代医療の一班を担う日本漢方医学の基盤を築いた。 撰文 小曽戸 洋 建立 平成23年(2011)10月19日 (社)日本東洋医学会 (財)日本寛保医学研究所 東亜医学協会 (社)日本医史学会 温知会 東京十日町会 十日町市 制作 藤巻秀正 所在地 中央区銀座3-6 (松屋銀座屋上) 龍光不動尊 ここに奉安されております龍光不動明王ご尊像は、鎌倉時代の名匠の作で、高野山龍光院に於いて、霊験現われましてから七百幾星霜を経ており、昭和4年(1929)5月松屋に念持物としてお迎えし、屋上の宝殿に安置申し上げ、龍光不動尊としてあがめ奉り松屋の鎮護とされております。 毎年正月、5月ならびに9月の28日には例祭をとりおこなっております。 参拝される方には、禍を転じて福となし、願望もかなえられ、家内安全、商売繁盛といわれております。 昭和63年(1988)戊辰1月28日 松屋銀座 松屋の守り神。鎌倉時代からあったとされる高野山龍光院の不動明王像を昭和4年(1929)に屋上に安置し、龍光不動尊として祀っている。龍光が「流行」に通ずるということで、ファッションに関してご利益があると言われている。 所在地 中央区銀座4-3 宝童稲荷神社 江戸時代に明主弥左衛門が子育て祈願の分祀として建立されたのがはじまりという説がある。良縁の成就や、子育てのご利益で地域の人だけでなく、多くの信仰を集めている。また、このあたりが多くの企業の創業の地であることから、企業家の参拝も多い。 所在地 中央区銀座6-10 (銀座松坂屋屋上) 靍護稲荷神社 抑も靍護大明神は今を去ること百五十年の昔、文化十二年は如月の午の日、山城伏見の本宮より勧請して江戸の根岸の里に奉安す、爾来店主店族は素より江戸市民の深き信仰を蒐めて今日に至れり、明治十四年の或る夜神守の親爺は神殿附近に於いて白狐を認めたるがその跡に一卷の掛軸遺畄しあるを発見し怪しみて■けば卑くも三州豊川稲荷大明神の尊像にてありしかば直■にその由を店主に告げて神霊と共に奉祀して今日に及べりと伝う大明神は霊顕■に顕にして特に火防の神として世々附近住民の難を救はせ給へる事一■に止まらず近き例に徴するも去る大正十二年九月関東大震災亦大正十四年三月日暮里の大火に当り既に危く見えたるにも拘らず神域社殿は銀座松屋舎宅の凡べて無事なるを得たるは今尚世人の■に新たなる所なり昭和四年己己の春二月十八日 二の午の吉辰を■日枝神社宮司に請うて神霊を分霊し地上八十尺の本館屋上に奉安して茲に遷座の式を行えり 昭和四十年四月十五日誌 今より150年春、伏見の本宮より勧請して奉安。白狐の持ち来る豊川稲荷大明神尊像を祀ると伝えられる。大震災、日暮里の大火より町内を守ったことは有名。 |
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