東京都中央区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 大地震等に対して、より安全性を高め、水辺に親しめる環境が再生されるよう、堤防基礎の強化、盛土・修景などを行い、幅の広いスーパー堤防の整備を進めています。 スーパー堤防の整備にあたっては、後背地の再開発のまちづくりと一体となって整備を進めています。 この場所は、日本で一番最初にできたスーパー堤防です。 PR 両都市と両河川をつなぐ有効を記念して、パリ市は東京都へオシップ・ザッキン作「メッセンジャー」を寄贈する。 1992年10月27日 東京にて ジャック・シラク
「メッセンジャー」(Le messeger) 本作品は、1937年オシップ・ザッキン(Ossip ZADKINE)47才の時の作品である。 この都市に開かれた「パリ万国博覧会」に出品された作品であり、オシップ・ザッキンの作品の中でも大作の一つのに数えられている。 当時の万国博覧会の案内書によるとこの作品は「希少木材を求めて海外に船を派遣するフランスの守護神を表したもの」とされている。 「メッセンジャー」は、パリ市の徽章にも描かれている帆船を思わせる船を描いている。 永代橋は、元禄11年(1698年)に隅田川の第四番目の橋として、現在の永代橋の場所より上流約150mに架けられていました。当時、橋の左岸を永代島と呼んでいたことから「永代橋」と名付けられましたが、一説には5代将軍徳川綱吉の50歳を迎えた記念として、その名を付けられたとも伝えられています。当時諸国の廻船が航行していたため、橋桁をを十分高く取ったので、「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総、限りなく見え渡り眺望よし」といわれる程の橋上からの景観でした。 永代橋が現在の場所に移されたのは明治30年(1897年)のことで、わが国の道路橋としては初めての鉄橋に生まれかわりました。その後、関東大震災で大破し、大正15年(1926年)12月に現在の橋に架替えられました。その姿は、上流の清洲橋の女性的で優美な雰囲気とは対照的に、男性的で重量感にあふれており、隅田川の流れとともに広く都民に親しまれています。 所在地 東京都中央区新川1-31先 明治維新後、わが国の開運界は国際的にみて立ち遅れが目立っていました。明治8年(1875年)大久保利通の命令により、岩崎弥太郎は「三菱商船学校」を設立し、これがのちの東京海洋大学(旧東京商船大学)となりました。当初、この学校は隅田川に成妙丸を繋留して校舎とし、生徒全員を船内に起居させて、近代的船員教育を実施しました。 新川は、現在の新川1丁目3番から4番の間で亀島川から分岐し、この碑の付近で隅田川に合流する運河でした。規模は延長約590m、川幅は約11mから約16mと、狭いところと広いところがあり、西から一の橋、二の橋、三の橋の三つの橋が架かっていました。 この新川は、豪商河村瑞賢(ずいけん)が諸国から船で江戸へと運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため、万治3年(1660年)に開さくしたといわれ、一の橋の北詰には瑞賢が屋敷を構えていたと伝えられています。当時、この一帯は数多くの酒問屋が軒を連ね、河岸にたち並ぶ酒蔵の風景は、数多くのさし絵や浮世絵などにも描かれました。 昭和23年(1948年)、新川は埋め立てられましたが、河村瑞賢の功績を後世に伝えるため、昭和28年(1953年)に新川史跡保存会によって、「新川の碑」が建立されました。 所在地 東京都中央区日本橋3-7 (中央区民文化財) 秤座は、江戸幕府の認可を受けて、全国の秤の量目の統一を図るため、秤の製造、検査、販売等の権利を独占した御用商人の事業所です。江戸と京都の2か所に置かれ、江戸の秤座は守随(しゅずい)家が東国33か国を管轄しました。 守随家は、もと甲斐の武田家に仕えた秤士で、のちに徳川家康に仕え、江戸開府と共に江戸に出て、徳川家領であった関八州の秤の責任者に任命されました。承応2年(1653年)に幕府が公式に秤座を定め、事業所は初め、京橋具足町(京橋3丁目)に置かれましたが、その後各地を移転し、天保13年(1842年)、日本橋箔屋町の現在地に移転しました。 明治8年(1875年)、明治政府の度量衡取条例の施行によって、秤座は廃止されました。 江戸時代の度量衡に関する重要な史跡として、中央区民文化財に登録されています。 (区民有形文化財) 現在の豊海橋は、大正15年(1926年)5月起工、昭和2年(1927年)9月竣工。 日本橋川が隅田川に流入する河口部の第一橋梁です。橋の歴史は古く、江戸時代中期には豊海橋(別名「乙女橋」)がありました。この辺りは新堀河岸と呼ばれ、諸国から廻船で江戸に運ばれた酒を陸上げする所で、川に沿って白壁の酒倉が並んでいました。 明治期に豊海橋は鉄橋になり、大正12年(1923年)の関東大震災で落橋してしまいました。復興局は新規に設計を土木部の田中豊に依頼、実際の設計図は若手の福田武雄が担当。隅田川支流の河口部の第一橋梁はデザインを一つ一つ変えて区別しやすく工夫していました。それは隅田川から帰港する船頭に対する配慮でした。 福田武雄はドイツ人フィーレンデールの案出した橋梁デザインを採用し、梯子を横倒しにした様な外観で重量感ある豊海橋を完成しました。この様式は日本では数ヵ所あるのみで近代の土木遺産としても貴重な橋で、区民有形文化財に登録されています。
所在地 東京都中央区日本橋箱崎町19 明治15年(1882年)10月10日、日本銀行はこの地で開業した。 明治29年(1896年)4月、日本橋本石町の現在地に移転した。 創業100周年を記念してこの碑を建てる 昭和57年(1982年)10月 日本銀行総裁 前川春雄 所在地 東京都中央区日本橋茅場町1-3 明治20年(1887年)11月21日、東京電燈会社がこの地にわが国初の発電所を建設し、同月29日から付近の日本郵船会社、今村銀行、東京郵便局などのお客様に電燈の供給を開始いたしました。 これが、わが国における配電線による最初の電燈供給でありまして、その発電設備は直立汽缶と、30馬力の横置汽機を据付け、25kwエジソン式直流発電機1台を運転したもので、配電方式は電圧210v直流三線式でありました。
国指定重要文化財
日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603年)と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする5街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。 (中央区民文化財) 十返舎一九は本姓を重田といい、明和2年(1765年)駿河(静岡市)に生まれた。その後、江戸に出て、日本橋の出版業者、蔦屋重三郎付の作家となり、多くの黄表紙・洒落本を書いた。なかでも「東海道中膝栗毛」はよく知られ、主人公の栃面屋弥次郎兵衛と喜多八が日本橋から東海道を旅し、伊勢参宮の後、京都へたどりつくという旅行記の形式をとる物語であり、続編に続編を重ね、十返舎一九の代表作となった。 天保2年(1832年)に没し、浅草永住町の東陽院に葬られた。関東大震災後、当地に移転し、墓も移された。 墓石には次の辞世が刻んである。 所在地 東京都中央区日本橋室町1-1先 日本橋は慶長8年(1603年)に創架され、江戸幕府により五街道の起点として定められました。現在の日本橋は明治44年(1911年)に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、4隅の親柱の銘板に刻まれた「日本橋」及び「にほんはし」の文字は最後の将軍・徳川慶喜公の揮毫におるものです。昭和47年(1972年)、日本橋中央の「東京市道路元標」が埋標されました。この複製も同時に制作・設置されたものです。東京市道路元標は、平成11年(1999年)に米寿を祝う日本橋とともに国の重要文化財に指定されています。 < 里 程 標 > 横浜市 29粁 千葉市 37粁 甲府市 131粁 宇都宮市 107粁 名古屋市 370粁 水戸市 118粁 京都市 503粁 新潟市 344粁 大阪市 550粁 仙台市 350粁 下関市 1,076粁 青森市 736粁 鹿児島市 1,469粁 札幌市 1,156粁 慶長年間(1596~1615)の頃、幕府に納めた残余の品を日本橋のたもとで一般に販売するようになったのが起源とされる。かつてこのあたりは鮮魚の店が連なり、日夜市がたって賑わった。 徳川家康の入府とともに開かれた日本橋魚市場は、江戸っ子の胃袋を満たしていました。江戸前寿司といわれる握り寿司は、文政年間から始まったといわれています。魚と米を発酵させる上方の押鮨に対して、江戸前は魚の種類が多い豊かな江戸湾でとれる新鮮な魚を使っているのが自慢でした。寿司種は刺身、白魚、玉子、穴子やこはだなどが使われ、種と飯の間にはわさびが入れられるという現在のスタイルと同じでした。 所在地 東京都中央区銀座8-20-26先 この信号機は、昭和6年(1931年)から昭和62年(1987年)1月31日までの56年間、国鉄汐留駅と東京都中央卸売市場築地市場との間を貨物引込線の踏切用として使用されました。 最盛時には、1日150輌に達する貨物車が通過しましたが、貨物輸送の変化に伴い、汐留駅廃止と共に引込線も撤去されることになりました。しかしながら、地元民の要望により、銀座には珍しい鉄道踏切信号機として、保存されることになりました。
< 保存理由 > 元この高速道路の下には汐留川が流れ、鉄橋も架かっていました。 汐留駅は、わが国の鉄道開業当時における始発駅の新橋駅でしたが、大正3年(1914年)東京駅が中央駅になると、ここは貨物駅になりました。大震災後、築地に東京中央卸売市場が完成すると、汐留駅と市場間に荷物運送のための線路がしかれ、大きな働きをしたのです。 都民の暮らしの台所を支えてきたこの信号機を、国鉄廃止に当たり捨て去られるのにしのびず、東京都中央卸売市場築地市場、東京都第一建設事務所並びに中央区教育委員会、地元各位の多大な御協力に依り、ここに永久保存されることになりました。 昭和62年(1987年)12月 銀座御門通り会 銀座金春通り会 この通りは、明治天皇が、宮城より海軍兵学校に御行幸された折に御通りになられたことからみゆき通りと呼称されるようになったといわれている。 また門扉は、その時代南フランスの貴族の館で使用されていたものである。 この橋は、江戸時代に松平越中守の屋敷前に架けられ「越中橋」と呼ばれていましたが、明治維新で江戸幕府の名残りである「越中」の名が取られ「久安橋」と改称されました。「久安」の名は、昔この付近に御坊主久安の拝領地があったことに因んで付けられたとされています。 現在の橋は、関東大震災の復興事業により、八重洲通りの造成と共に、この位置に架け替えられたもので、設計にあたり皇居に近く東京駅を正面に臨む場所柄を考慮して、石を多く使用し重みの感じられる「アーチ橋」にしたものと思われます。 昭和39年(1964年)に、楓川が埋め立てられ、高速道路が開通したことで、この橋の周辺の景観は架設当時とは大きく変わり、橋の象徴である親柱が取り外されたこと等から、利用者にとっても「橋」としての印象がうすい存在となっていました。 中央区では平成3年度に、自然石を使い、デザインに「アーチ」の曲線を取り入れた橋梁の環境整備を行ない、人々に親しまれる橋として装いを新たにしました。
勝鬨橋かちどきばし(勝どき橋) <橋長>246m <有効幅員>22m <構造型式> 可動部 シカゴ型固定軸双葉跳開橋 固定部 ソリッドリブタイドアーチ橋 橋台部 半重力式RC造り 橋脚部 半重力SRC造り <工事期間> 昭和8年(1933年)6月10日~昭和15年()1940年6月14日 <工事費> 418万円
所在地 東京都中央区銀座8丁目20~26 明治9年(1876年)6月17日、この地に工部省電信寮の碍子試験所が発足して電信用碍子の電気試験がおこなわれた。これが我が国における近代的物品購入検査の始まりである。 所在地 東京都中央区日本橋兜町2-1 東京証券取引所の前身、東京株式取引所は明治11年(1878年)の開所。東京証券取引所を名乗ったのは昭和24年(1949年)のこと。
この橋は、霊巌島(現在の新川地区で通称こんにゃく島と呼ばれていた。)と対岸の箱崎地区の埋立地(隅田川の中洲)とを結ぶために、延宝7年(1679年)に架けられました。 この地域は、江戸時代から水路交通の要所として栄え、とくに江戸と関西を結んで樽廻船によって酒樽が輸送されていました。「江戸名所図会」によるとこの橋は、当時の湊町を形成した日本橋川河口の繁栄を象徴しており、また橋をはさんだ川岸には倉庫が建ち並び、当時の賑わいが偲ばれます。 橋名の由来については、江戸湊の出入口にあったところから、湊橋と名付けられたものです。 現在の橋は、関東大震災の復興期に再建されたもので、平成元年度の整備事業において、装いを新たにしました。 <型式> 三径間コンクリートアーチ橋 <橋長> 49.68m <有効幅員> 18m(車道11m 歩道3.5m×2) <竣工> 昭和3年(1928年)6月 <竣工費> 208,000円
鎧橋が最初に架かったのは明治5年(1872年)で、当時の豪商が自費で架けたのが始まりです。橋が架けられたのと前後して米や油の取引所、銀行や株式取引所などが開業し、この地は大いに賑わいました。 その後、明治21年(1888年)には鋼製のプラットトラス橋に架け替えられました。 その頃の様子を文豪 谷崎潤一郎は「幼少時代」でこんな風に書いています。 「鎧橋の欄干に顔を押しつけて、水の流れを見つめていると、この橋が動いているように見える・・・・・・・・ 私は、渋沢邸のお伽のような建物を、いつも不思議な気持ちで飽かず見入ったものである・・・・・・・・ 対岸の小網町には、土蔵の白壁が幾棟となく並んでいる。このあたりは、石版刷りの西洋風景画のように日本離れした空気をただよわせている。」 現在の橋は昭和32年(1957年)7月に完成したもので、ゲルバー桁橋とよばれるものです。 橋の外側に間隔を置いて突き出ている鉄骨が、ごつごつした鎧を感じさせます。
所在地 中央区築地6-20-11 明治25年(1892年)、銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されましたが、月島側の発展にともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態でした。 明治38年(1905年)、日露戦争の旅順要塞(中国北東部)陥落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し、東京市に寄付しました。当地にある石碑は、この時に建てられた記念碑です。石碑の正面に「かちときのわたし」とあり、側面には「明治38年(1905年)1月京橋區祝捷會挙行之日建之京橋區同士會」と陰刻されています。 設置された勝鬨の渡しの渡船場は、ここから約150m西の波除稲荷神社の辺りにありました。対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸通九丁目(現在の勝どき1,3丁目の境)の辺りにあって、この間を渡船が運航していました。 勝鬨の渡しは、住民や月島の工場へ通う人々の重要な交通機関として大いに利用されていました。とくに、月島への労働人口の集中を容易にさせることになり、月島が工業地帯として発展する基となりました。 大正12年(1923年)の関東大震災後、架橋運動が起こり、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架せられることになりました。勝鬨の渡しは橋の架橋まで運行され、昭和15年(1940年)6月、勝鬨橋の開通とともに廃止されました。 勝鬨の渡しの名は橋名に受け継がれて今もその名を残しています。 所在地 東京都中央区明石町8 アメリカ公使館は安政6年(1859年)初代アメリカ行使ハリスにより港区元麻布1-6、善福寺に開設されたが、明治8(1875年)12月築地の外国人居留地内のこの地に新築され、はじめて形容を整えた。のち明治23年(1890年)3月赤坂の現在地に移転され、現在の大使館になっている。 最後の移転により、この地には8個の小松石の石標が残された。石標には、白頭鷲、星条旗、星の3種類の彫刻が施されており、白頭鷲はアメリカの国鳥であり、星条旗に彫られた13の星は同国初期の13州を示す。 8個の石標のうち3項は昭和59年(1984年)10月に日米友好のシンボルとして、赤坂のアメリカ大使館に寄贈され、現在同大使用館の前庭に配置されている。残る5個の石標は、築地の居留地時代を伝えられるものとして中央区民文化財団に登録されており、うち2個をここに、3個を旧病院前に設置する。 所在地 中央区明石町5-26 (中央区民文化財) カトリック築地教会は、明治4年(1872年)にパリ外国宣教会のマラン神父が、鉄砲洲の稲荷橋付近の商家を借りて開いた「稲荷橋教会」がその前身とされます。明治7年(1874年)、神父は宣教会の名義で築地居留地35・36番を借り受け、ここに司祭館と聖堂を建てました。明治11年(1878年)には、ここにゴシック様式の聖堂が献堂されますが、この聖堂は関東大震災で焼失し、現在の聖堂が昭和2年(1927年)に再建されました。聖堂は石造りに見えますが、実は木造建築で、壁面をモルタル塗りとしています。 また、旧聖堂で使用された鐘は、明治9年(1876年)にフランスのレンヌで製作され、当時の司祭であるルマレシャル神父から「江戸のジャンヌ・ルイーズ」と名付けられたもので、現在も教会に保管されています。 教会聖堂と鐘は、かつて外国人居留地のあった明石町に残された貴重な文化財として、中央区民文化財に登録されています。 所在地 中央区新川1・2丁目地域 江戸時代、この辺りは越前福井藩主、松平越前守の屋敷地でした。屋敷は三方が入堀に囲まれ、これが「越前堀」と通称されていました。越前堀の護岸は石積で、今でも建設工事中や遺跡の調査中に、越前堀のものとみられる石垣石が出土することがあります。堀の幅は12~15間(20~30m程)もあり、運河として用いられ、荷を積んだ小舟が通っていたようです。 明治になり、越前守の屋敷地が「越前堀」という町名となりましたが、堀は次第に埋め立てられて行きます。大正12年(1923年)の関東大震災以後、一部を残して大部分が埋め立てられ、わずかに残っていた隅田川に近い部分も、戦後完全に埋め立てられました。その後町名が改められ、「新川」となって現在に至っています。 今では往時をしのぶ「越前堀」の名は、ここの越前堀公園にみられるのみとなりました。
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永山
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