東京都中央区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 この橋は、江戸時代に松平越中守の屋敷前に架けられ「越中橋」と呼ばれていましたが、明治維新で江戸幕府の名残りである「越中」の名が取られ「久安橋」と改称されました。「久安」の名は、昔この付近に御坊主久安の拝領地があったことに因んで付けられたとされています。 現在の橋は、関東大震災の復興事業により、八重洲通りの造成と共に、この位置に架け替えられたもので、設計にあたり皇居に近く東京駅を正面に臨む場所柄を考慮して、石を多く使用し重みの感じられる「アーチ橋」にしたものと思われます。 昭和39年(1964年)に、楓川が埋め立てられ、高速道路が開通したことで、この橋の周辺の景観は架設当時とは大きく変わり、橋の象徴である親柱が取り外されたこと等から、利用者にとっても「橋」としての印象がうすい存在となっていました。 中央区では平成3年度に、自然石を使い、デザインに「アーチ」の曲線を取り入れた橋梁の環境整備を行ない、人々に親しまれる橋として装いを新たにしました。 PR |
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永山
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