東京都中央区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 中央区日本橋小伝馬町3-5 東京都史蹟 昭和29年(1954年)指定 準別格本山 江戸第五番札所 真言宗 新高野山 大安楽寺
<宗旨> 宗祖弘法大師を仰ぐ 高野山真言宗に所属 <教義> 凡聖不二 即身成仏を以て立教開宗の根本教義とする。 <縁起> 抑も此の地伝馬町は 江戸時代 徳川幕府の牢獄の所在せし所なり。当山開基山科俊海大僧正 明治初年 高野山より錫を六本木の五大山不動院に留め 化を十方に布く。時 偶々此の地伝馬町牢 処刑場跡に燐火の燃ゆるを見 大悪禁ずる能はず 幾万余の知られざる無告の霊 鬼哭悠々として 寄辺なきを弔ひ、又安政の大獄で知られざる吉田松陰等 当地で処刑された勤皇の志士の霊を慰め 又一つには 牢跡を以て浄地となし四隣の繁栄に資せん事を希念し、明治五年より勧進し、同八年一字を建立。高野山より弘法大師を勧請し本尊となす。又処刑場跡には延命地蔵菩薩を建立し 堂塔 伽藍を整備(現十思公園を含む) これを当山の濫鯣とす、爾来尊崇の信仰を聚め都心に輪喚の美を競うも 大正十二年の大震火災にかかり 昭和四年今日の規模となり 現在に及ぶ。昭和廿九年都史蹟指定 <本尊> 弘法大使 廿一日 不動明王 廿八日 蘐■供 十一面観世音菩薩 十八日 弁財天 巳の日 延命地蔵菩薩 四の日 大黒天 子の日 大日如来 一日 稲荷大明神 牛の日 ■時 昭和五十一年四月吉祥 題 第四世中山弘之 弘法大師 21日 不動明王 28日 十一面観世音菩薩 18日 弁財天 己の日 延命地蔵菩薩 四の日 大黒天 子の日 大日如来 1日 稲荷大明神 午の日
昭和51年(1976年)4月吉祥 第四世中山弘之 PR
所在地 中央区日本橋蛎殻町2-4
日本橋七福神 弁財天
所在地 東京都中央区日本橋浜町2-11
宝暦10年(1760年)先祖山田鐵右衛門、御鷹匠の家に生まれ、27才の折、将軍家に出仕するかたわら、妻「たま」と共に『御鷹匠仕事』をもって家業を興し、現在の人形町3丁目にあたる地に屋号を『玉鐵』と称して、軍鶏専門の店を創業致しました。 御鷹匠仕事とは将軍家の御前にて鶴を切る厳儀に由来する格式の高い包丁さばきでございます。家伝の法は、放血せずに〆た鳥を、血を見せることなくただちに骨と身にとり分け、肉に手をふれずに薄く切る練達の秘法でございます。 初代鐵右衛門は将軍家御鷹匠の職を奉じていたため、特定の顧客のみに、その独特の包丁を披露いたしておりました。 その後、二代鐵之丞・三代鐵之助の嘉永5年(1852年)に上梓された名物店番付『江戸五高昇薫』には「しゃもなべー四谷御門内万蔵金・ミソヤシンミチ大はし・住吉丁玉てつ・馬道桜や・スキヤカシ中嶋」とあるように、鳥料理五店の中に選ばれ、今も続いている他の業種の老舗ともども収載されております。その頃、幕閣の御鷹匠廃止の動きに加え、御鷹匠仲間と起こした不始末などもあり、それを機に、三代鐵之助はその職を返上し、倅四代目善次郎と共に軍鶏なべ専門の店としての営業に専念することになりました。 四代善次郎の慶応元年(1865年)には、たべもの店番付『花長者』に、「イツミ丁 玉鉄 あいかも じゃも」(後の町名地番制定により 新和泉町七番地=現在 人形町3-11-11)とあり、かわらぬ繁盛の体をつたえております。また、明治8年(1875年)には『東京牛肉・しゃも流行見世』の番付に載る有名店として評判を得ております。 おりから、蠣殻町に水天宮の遷座・米殻取引所の開設などがあり、これによる米屋町・人形町通りの繁盛にともない、明治16年(1883年)現在の営業地、人形町1-17-10(当時 蠣殻町2-14)に好適の地を得て、蠣殻町『玉鐵』として支店を開業し、その営業を倅秀吉(当時16才)に任せることになりました。 明治25年(1892年)千穐庵選『當世雷名八称人』(各種有名八店の番付)には『鳥肉八鮮』の中に推されております。このように皆様のごひいきを頂き、新和泉町・蠣殻町二店の営業をつづけるなかで、明治28年(1895年)、蠣殻町店の店舗拡大にともない本支店を統合して、お客様方の贔屓に応えることになりました。 その間に、鳥鍋の残りの割下に卵をとじる召し上がり方にヒントを得た秀吉の妻「山田とく」の創案によるわが国最初の「親子丼」がお出前として売り出され、兜町・米屋町・旧魚河岸(日本橋)を中心に時好に投じたものとして喧伝され、しだいに全国にひろまってゆきました。以来、親子丼発祥の店としてその名を知られております。 明治30年(1897年)、「秀さん、秀吉つぁん」とお客様や近所界隈に人気のあった秀吉が五代目を継承し、それまでの「玉てつの秀さん」の店という蠣殻町店の通り名が、明治31年(1898年)の毎朝新聞による料理店の人気投票の番付には、『玉秀』としてご投票いただくまでになりました。現在つかっております『玉ひで』の屋号は、お客様に呼び親しまれていた通称で、いわば、お客さまにつけていただいた屋号であります。 所在地 中央区日本橋室町1-10-9 ウイリアム・アダムスは1564年イギリスのケント州に生れ、慶長5年(1600年)渡来。徳川家康に迎えられて江戸に入り、この地に屋敷を給せられた。造船・砲術・地理・數学等に業績をあげ、ついで家康・秀忠の外交特に通商の顧問となり、日英貿易等の発展に貢献し、元和6年(1620年)4月24日平戸に歿した。 日本名、三浦按針は相模國逸見に領地を有し、また元航海長であったことに由来し、この地も昭和初期まで按針町と呼ばれた。 所在地 中央区日本橋室町2-1-1 新亀島橋が初めて架けられたのは、明治15年(1882年)3月、長さ十五間(約27m)、幅三間(約5.4m)の木橋であったと記録されています。その後、大正15年(1926年)3月に関東大震災(1923年)の復興事業により鋼桁の近代橋として架け替えられ、幅も15mと3倍近くに広がりました。 新亀島橋の名前は、この橋の下流に位置し、元禄の時代から架かる亀島橋に対して新の字を冠し、新亀島橋と名が付けられました。 茅場町側の橋詰付近は、昭和の初め頃まで亀島町と呼ばれており、その昔、瓶を売るものが多かったことに由来し、瓶島町がその起こりといわれています。江戸時代には町奉行配下の与力たちの屋敷が並び、また亀島川に臨む亀島町は水運を活用していたであろう米穀問屋が多い町でした。 新川側は、菱垣廻船や樽廻船が往来し、上方から来る下り酒と呼ばれる酒を扱う酒問屋で賑わいを見せ「江戸新川は酒問屋をもって天下に知られ」と言われるほどでした。 時代は平成となり、亀島川の耐震護岸整備の一環として生まれ変わった新亀島橋は、地域の亀島川の歴史的な関わりを基調として、「廻船」をモチーフにデザインされました。「歴史と文化を後世に伝える架け橋」として、江戸情緒をたっぷり取り入れ、各所に浮世絵風の意匠を凝らしています。 橋長 30.5m 有効幅員 15.0m(車道9.0m 歩道3.0m×2) 型式 鋼床版ラーメン橋 建設年次 平成7年(1995年)8月 所在地 中央区日本橋浜町2-9先 和田啓十郎先生は漢方医学がまさに絶滅せんとしたとき、この地において衣を薄うし食を粗にして得たる資金を以て明治43年(1910年)、「醫界之鐵椎」を自費出版し、漢方医学の復興に起ち上った。 今や漢方再興の気運に際会し先生の旧趾に碑を建て、その偉業を顕彰するものである。 所在地 中央区八重洲1-2-5 日本橋西河岸地蔵寺に安置してある地蔵菩薩は、人皇四十四代元正天皇(715~724)の御宇、諸国巡歴中の名僧行基菩薩が、衆生結縁のために暫く遠州四方城(静岡県引佐郡)に草庵を構えた折に、地蔵菩薩の霊告を受け、自ら御丈二尺八寸の御尊像を彫刻したものと伝えられています。 この地蔵菩薩は、天海僧正の御持仏で、至心に祈願すれば日ならずして御利益を授かるところから、『日限地蔵尊』と呼ばれ、ことに延命祈願に霊験あらかたなことは古来より広く世に知られています。 享保3年(1718年)9月、勝縁の地として、ここ西河岸に遷座し、今日まで二百数十年を数えます。建立の当時は『正徳院』と呼ばれ、天皇直々に拝謁し奏上のできる格式高い寺でありました。その後、明治維新の廃仏毀釈と大正12年(1923年)9月の関東大震災や戦火などによる多くの変遷を経て、今日に至っています。 なお、現在の堂宇は昭和52年(1977年)4月新たに立て替えられたものです。 所在地 中央区八丁堀1-14-7先 越後新発田五萬石溝口藩中山弥次右衛門の子寛文十一年生れ。元禄元年江戸之念汽堀内道場へ入門元禄四年玉木一刀齋道場師範元禄七年二月高田の馬場に於て叔父菅野六郎左右衛門之仇討其の後も京橋水谷町儒者細井次郎大夫家に居住浅野家臣堀部家の妙と結婚堀部安兵衛武庸となる禄高二百石元禄十四年十月本所林町に於て長江左衛門の名で剣道指南元禄十五年十二月十四日赤穂義士の一人として吉良邸に乱入仇討す元禄十六年二月四日歿三十四歳 法名 刀雲輝剣信士 当地区は、今から370~380年前、江戸の城下町が開拓される頃は、一面の沼地葭原であった。 寛永元年(1624年)に、雄誉霊巌上人が霊巌寺を創建して、土地開発の第一歩を踏みだし、寛永11年(1635年)には寺地の南方に、越前福井の藩主松平忠昌が、27,000余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。 邸の北、西、南三面に船入堀が掘られて後に越前堀の地名の起る原因となった。 明暦3年(1657年)の江戸の大火で、霊巌寺は全焼して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となって市内の町町が、替地として集団的に移ってきた。 明治大正年間には富島町、浜町、四日市町、塩町、大川端町、川口町、長崎町、霊巌島町、銀町、東港町、新船松町、越前堀、南新堀の十三町に分れ、多額納税者も多数居住して検潮観測所もあり、湾内海運の発着地、倉庫地帯として下町商業の中心であった。大正の大震災により全部焦土と化し、昭和6年(1931年)7月区画整理によって、ゆかり深い町名も新川1、2丁目・越前堀1、2、3丁目と改称され、更に昭和46年(1971年)住居表示制度の実施により新川1、2丁目となった。江戸時代からの歴史を象徴する懐かしい遺跡も消えつつあるのを憂慮してこの記念碑を建立する。 昭和52年(1977年)3月 霊巌島保存会 弾正橋 京橋2・3丁目~八丁堀3・4丁目 白魚橋 京橋3丁目~銀座1丁目 真福寺橋 銀座1丁目~新富1丁目 ここから北方約30mの地点には、明治の年末まで、北東から楓(もみじ)川、北西から京橋川、東へ流れる桜川、南西へ流れる三十間堀が交差していました。この交差点に近い楓川に弾正(だんじょう)橋、京橋川に白魚橋、三十間堀に真福寺橋が架かり、この三橋を三つ橋と称していました。 三つ橋は、すでに寛永9年(1632年)作成といわれる「武州豊嶋郡江戸庄図」に図示されていますが、橋名の記入はなく、橋名についても幕末までいろいろ返遷がありました。 明治末に真福寺橋、昭和34年(1959年)に白魚橋がいずれも河川の埋立てによって廃止され、弾正橋は昭和37年(1962年)、高速道路工事によって現在の姿となりました。
この公園で使用した石は、昭和60年(1985年)東京都が日本橋川右岸改修工事をした際雉(きじ)橋付近から発生した石垣の一部です。 徳川幕府は慶長10年(1605年)第二期江戸城建設にあたり、江戸城およびお濠の石垣採取輸送を中国、四国、九州の31大名に命じました。石の大部分は伊豆半島の東海岸から切り出され江戸まで運ばれましたが、石の切り出し、海岸までの輸送、陸揚げ等一連の作業は困難をきわめ、たいへんなお金と労力と犠牲がはらわれています。 また石には、各大名、組頭、石工等のものと思われる紋や目印等が刻まれているものもあります。 泰明小学校は明治11年(1878年)6月に開校され、北村透谷と島崎藤村はその初期の卒業生でした。 北村透谷(1868~1894)は、現在の神奈川県小田原市に生まれ、明治14年(1881年)に家族とともに京橋区弥左衛門町(現在の銀座4丁目)に転居し、翌年卒業するまで泰明小学校に通いました。その後、自由民権運動に惹かれて政治運動を志しましたが、後に文筆活動に転じ文芸評論家・詩人として活躍しました。明治26年(1893年)雑誌「文学界」に参加した透谷は、文芸における自由主義を唱え、近代浪漫主義文学の開拓者といわれました。 島崎藤村(1872~1943)は、中山道馬籠宿(現在の岐阜県中津川市)に生まれ、明治14年(1881年)に上京し、京橋区鎗屋町(現在の銀座3・4丁目付近)の姉の嫁先から泰明小学校に通学しました。その後、姉夫婦が帰郷したことにより同郷人の家に寄寓し、明治17年(1884年)に卒業しました。明治学院在学中に文学への関心を深めた藤村は、「文学界」の活動を通して透谷から深い影響を受けました。著作に「若菜集」・「春」・「夜明け前」などがあり、中でも「破戒」は自然主義文学の先駆と言われています。 我が国における自動車電話交換方式の発祥は大正15年(1926年)1月20日、旧京橋電話局の交換業務開始による。自動電話交換開始50年に当り京橋電話局跡であるこの地に、記念碑を造り昭和50年(1975年)1月20日除幕した。記念碑は当時の自動電話交換機の回路図の一部を図案化したものであり、銘板は米澤滋博士の筆によるものである。 自動交換開始記念碑設置委員会 この塔は大正12年(1923年)9月1日午前11時58分 東京を中心に関東一帯をおそった大震災を記念するため広く浄財を集めて10周年の昭和8年(1933年)9月1日に建てたものでわが国彫刻界の巨匠北村西望先生が「平和の神」を象徴して制作されたものであります。 <震災の被害状況> 1954年3月1日、米国が南太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で被爆した第五福竜丸から水揚げされた魚の一部(約2t)が同月16日築地市場に入荷しました。国と東京都の検査が行われ、放射能汚染が判明した魚(サメ、マグロ)などは消費者の手に渡る前に市場内のこの一角に埋められ廃棄されました。 全国では850席余りの漁船から460t近くの汚染した魚が見つかり、日本中がパニックとなって魚の消費が大きく落ち込みました。築地市場でも「せり」が成立しなくなるなど、市場関係者、漁業関係者も大きな打撃を受けました。 このような核の被害がふたたび起きないことを願って、全国から10円募金で参加した大勢の子供たちと共に、この歴史的事実を記録するため、ここにプレートを作りました。 1999年3月1日 マグロ塚を作る会 所在地 中央区築地6-20先 海幸橋(かいこうばし)は、関東大震災復興事業の一環として、昭和2年(1927年)10月に当時の東京市により架橋されました。 優美な形をしたこの橋は、ランガー式補剛タイドアーチ橋という構造形式に分類され、我が国初のランガー橋としてこの地に架けられました。また、点対称に配置された照明付きの親柱は、アムステルダム派デザインといわれ、橋梁デザイン史上貴重なものでした。 このタイプで現存する橋は、江東区の平久運河に架かる白妙橋〔昭和12年(1937年)架橋〕があります。 皆様に70年有余年親しまれたこの橋も、築地川東支川の埋め立てに伴い、撤去するにいたりました。 中央区では、親柱を現地に修復保存(塗装色は、架橋当時のもの)し、海幸橋を後世に伝えられることにしました。 「水神社(すいじんじゃ)」の歴史は古く、天正18年(1590年)徳川家康公の江戸入府とともに移住してきた日本橋魚市場の開祖・森孫右衛門ら摂津国の佃村・大和田村の漁師たちが、大漁・海上安全と子孫繁栄を祈願して「弥都波能売命(みずはのめのみこと)」を祀った「大市場交易神(おおいちばこうえきしん)」がその始まりといわれています。 明治34年(1901年)には神田明神の境内に「水神社」本殿が建立され、日本橋魚市場は関東大震災(1923年)以後に築地に移転し、現在地に遥拝所(ようはいじょ)が建立されました。 以来、築地魚市場の守護神として「水神さま」とお呼びし、魚河岸会の人々の篤い崇敬によって大切に守られています。 この場所は、江戸時代は松平定信公庭園跡で、明治維新後は海軍用地となり、境内にある「旗山(はたやま)」の碑は、日本海軍発祥の地のゆかりを記す貴重な史跡です。 尚、毎年2月には神田明神境内の水神社本殿、御参拝が行われています。 また遥拝所でも1、5、9月の年3回神事が執り行われています。 魚河岸会 所在地 中央区銀座8-6~8地域 江戸時代、幕府直属の能役者として知行・配当米・扶持を与えられていた家柄に、金春(こんぱる)・観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金剛(こんごう)の四家がありました。能楽は宝町時代に足利幕府の保護奨励を受けて発達し、安土桃山時代には熱心な愛好者であった豊臣秀吉の保護を受けて大いに興隆しました。 とくに、金春家は秀吉の強力な保護を受け、能楽の筆頭として召しかかえられました。江戸幕府も秀吉の方針を踏襲して能楽を保護し、金春・観世・宝生・金剛の四座を幕府の儀礼に深く関わる式楽と定めました。 元禄6年(1693年)頃の江戸市中の状況を記した『国花万葉記』によると、金春大夫は山王町(現在の銀座)・観世大夫は弓町(現在の銀座)・宝生大夫は中橋大鋸(おが)町(現在の京橋)・金剛大夫は滝山町(現在の銀座)に屋敷を拝領していたとされています。 金春家は、寛永4年(1627年)に屋敷を拝領したといわれ、寛永9年(1632年)の江戸図『武州豊嶋郡江戸庄図』には「金春七郎」の名を確認することができ、現在の銀座8丁目6・7・8番地全体を占めていたように図示されています。後に、この屋敷は麹町善国寺谷(千代田区麹町3・4丁目)に移りましたが、跡地には芸者が集まり花街として発展していき「金春芸者」といわれるようになりました。金春の名は、「金春湯」・「金春通り」などとして、今もこの地に残っています。 所在地 中央区銀座8-9先 昭和初期、関東大震災(1923年)復興事業の一環として、銀座”柳”が植えられました。信州安曇野から運ばれた若木は、すくすくと生長し銀座の街並みに美しく映え、歌にも歌われる程愛着をもたれるようになりました。 しかし、戦災や近年の道路整備などで、その姿も消え、今では往時を偲ぶよすがもありません。 中央区では”柳”「区の木」に制定し、区内各所に植えていますが、この度、長野県穂高町の御好意により、当時と同じ安曇野地方算出の”柳”を寄附していただきました。そこで緑美しい銀座の再現を願ってこの地に植栽するものであります。 所在地 中央区銀座8-7 銀座は日本に二箇所しか建設されなかったきわめて貴重な煉瓦街の一つです。銀座の煉瓦街は世界でも珍しい規模のものでした。もう一つは丸の内の煉瓦街でした。しかし今日では残されたこうした遺構から明治時代の煉瓦街を窺い知るほかはありません。 設計者はトーマス・ジェイムス・ウォートルスというイギリス人です。フランス積みで、明治5年(1872年)から明治10年(1877年)にかけて当時の国家予算の4%弱を費やし、延べ10,460mという壮大なものでした。 この煉瓦は昭和63年(1988年)に銀座8丁目8番地(旧金春屋敷地内)で発掘されたものでゆかりの金春通り記念碑として保存される事になりました。 土地所有者の故松川浩子氏のご厚意で大部分は江戸東京博物館に展示され、その一部を「銀座金春通り煉瓦遺構の碑」が史跡として平成5年(1993年)9月に建立されました。 下の絵は、明治初期のガス灯や張り板、提灯など当時の金春通り煉瓦街を偲ばせる古い写真を元に銅版に彫金したもので、見る角度により昼夜の陰影が出るよう微妙な細工が施されています。
銅版画制作 第十一代 銅昭 【 能楽金春祭り 】 8月7日に金春通りの路上で演じられる番組は、いずれも、千年の古儀を誇る『奈良金春』独特の能楽であり、平和を祈願し、泰平を喜ぶおめでたい曲です。 このあたりは、江戸前期に松平采女正の屋敷があり、享保9年(1724年)の大火で焼けたあと日除地になって、俗に采女が原と呼ばれました。橋名の由来はここからきたものと思われます。 采女が原は、明治2年(1869年)に采女町と称する市街地となり、銀座煉瓦街と築地の外国人居留地との間に位置して和洋混合の新興市街地が形成されていったようです。 震災復興時に架け替えられた現在の橋は、当時意匠的に優れていたといわれるアーチが採用されました。また橋の下は昭和37年(1962年)に築地川から現在の高速道路に姿を変えました。 中央区では平成2年度に、幻のホテル”築地ホテル館”〔明治元年(1868年)、近代的な様式ホテル第一号として誕生し、栄華を誇ったが明治5年(1872年)に焼失〕と”銀座の柳”を題材にした意匠で高欄等を整備しました。 形式 2径間鉄筋コンクリートアーチ橋 橋長 42m 有効幅員 15m(車道9m 歩道3m×2) 着工 昭和4年(1929年)9月 竣工 昭和5年(1930年)10月 施工主 東京市 |
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永山
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