所在地 中央区日本橋蛎殻町2-4
日本橋七福神 弁財天
東京下町 八社福参り 安産子授け
<御祭神>
天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)
安徳天皇 (第八十一代)
建礼門院 高倉天皇の中宮
安徳天皇の母君 御名 徳子
二位ノ尼 平清盛の妻 御名 時子
安徳天皇の祖母
建礼門院の母
水天宮は文政元年(1818)港区赤羽に在った有馬藩邸に当時の藩主有馬頼徳公が領地(福岡県久留米市)の水天宮の御分霊を神主に命じて藩邸内に御分社を祀らせたのが創めです。久留米の水天宮は今からおよそ700年程前に建立されたと伝えられております。彼の壇ノ浦の戦で敗れた平家の女官の一人が源氏の目を逃れ久留米付近に落ちのび、一門と共に入水された安徳天皇、建礼門院、二位の尼の御霊をささやかな祠をたててお祀りしたのが創めです。 江戸時代の水天宮は藩邸内に在った為、庶民は普段参拝できず門外より賽銭を投げ参拝したと言います。ただし毎月5日の縁日に限り殿様の特別の計らいにより藩邸が開放され参拝を許されました。その当時ご参拝の妊婦の方が鈴乃緒(鈴を鳴らす晒しの鈴紐)のおさがりを頂いて腹帯として安産を祈願したところ非常に安産だったことから人づてにこの御利益が広まりました。その当時の水天宮の賑わいを表す流行り言葉に”なさけありまの水天宮”という洒落言葉があった程です。
明治維新により藩邸が接収され有馬邸が青山に移ると共に青山へ、更に明治5年(1872年)11月1日現在の蛎殻町に御鎮座致しました。
関東大震災(1923年)では神社も被災しましたが、御神体は隅田川に架かる「新大橋」に避難し難を逃れました。その後、御復興も相成り、昭和5年(1930年)流れ造りの社殿が完成、時移り昭和42年(1967年)、現在の権現造りの社殿となりました。
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