東京都中央区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 東京都中央区日本橋茅場町1-3 明治20年(1887年)11月21日、東京電燈会社がこの地にわが国初の発電所を建設し、同月29日から付近の日本郵船会社、今村銀行、東京郵便局などのお客様に電燈の供給を開始いたしました。 これが、わが国における配電線による最初の電燈供給でありまして、その発電設備は直立汽缶と、30馬力の横置汽機を据付け、25kwエジソン式直流発電機1台を運転したもので、配電方式は電圧210v直流三線式でありました。 PR 鎧橋が最初に架かったのは明治5年(1872年)で、当時の豪商が自費で架けたのが始まりです。橋が架けられたのと前後して米や油の取引所、銀行や株式取引所などが開業し、この地は大いに賑わいました。 その後、明治21年(1888年)には鋼製のプラットトラス橋に架け替えられました。 その頃の様子を文豪 谷崎潤一郎は「幼少時代」でこんな風に書いています。 「鎧橋の欄干に顔を押しつけて、水の流れを見つめていると、この橋が動いているように見える・・・・・・・・ 私は、渋沢邸のお伽のような建物を、いつも不思議な気持ちで飽かず見入ったものである・・・・・・・・ 対岸の小網町には、土蔵の白壁が幾棟となく並んでいる。このあたりは、石版刷りの西洋風景画のように日本離れした空気をただよわせている。」 現在の橋は昭和32年(1957年)7月に完成したもので、ゲルバー桁橋とよばれるものです。 橋の外側に間隔を置いて突き出ている鉄骨が、ごつごつした鎧を感じさせます。
所在地 中央区日本橋茅場町1-6-10 蕉門十哲のひとり室井其角(1661~1707)は、芭蕉没後派手な句風で、洒落風を起こし、その一派は江戸座と呼ばれた。 新亀島橋が初めて架けられたのは、明治15年(1882年)3月、長さ十五間(約27m)、幅三間(約5.4m)の木橋であったと記録されています。その後、大正15年(1926年)3月に関東大震災(1923年)の復興事業により鋼桁の近代橋として架け替えられ、幅も15mと3倍近くに広がりました。 新亀島橋の名前は、この橋の下流に位置し、元禄の時代から架かる亀島橋に対して新の字を冠し、新亀島橋と名が付けられました。 茅場町側の橋詰付近は、昭和の初め頃まで亀島町と呼ばれており、その昔、瓶を売るものが多かったことに由来し、瓶島町がその起こりといわれています。江戸時代には町奉行配下の与力たちの屋敷が並び、また亀島川に臨む亀島町は水運を活用していたであろう米穀問屋が多い町でした。 新川側は、菱垣廻船や樽廻船が往来し、上方から来る下り酒と呼ばれる酒を扱う酒問屋で賑わいを見せ「江戸新川は酒問屋をもって天下に知られ」と言われるほどでした。 時代は平成となり、亀島川の耐震護岸整備の一環として生まれ変わった新亀島橋は、地域の亀島川の歴史的な関わりを基調として、「廻船」をモチーフにデザインされました。「歴史と文化を後世に伝える架け橋」として、江戸情緒をたっぷり取り入れ、各所に浮世絵風の意匠を凝らしています。 橋長 30.5m 有効幅員 15.0m(車道9.0m 歩道3.0m×2) 型式 鋼床版ラーメン橋 建設年次 平成7年(1995年)8月 亀島川は、日本橋川から分かれ、隅田川へ合流する全長1kmほどの川です。この川の上流端には日本橋水門(1971年完成)が、下流端には亀島川水門(1968年完成)があります。高潮あるいは津波時には、両水門を閉鎖して亀島川流域住民の生命・財産を守ります。
『日枝』とは近江国比叡山(日枝山といわれていた)に因む名であり、大津市坂本の日吉大社(ひえたいしゃ)を本祠とする。伝教大師最澄が比叡山に延暦寺を開き、日枝の神を一山の鎮守、天台宗の守護神としたことから、天台宗の教線拡大に伴って各地に勧請された。
(本社) 山王日枝神社 千代田区永田町2 (御祭神) 主祭神 大山咋神(おおやまくいのかみ) 相殿 国常立神(くにのとこたちのかみ) 伊弉冉神(いざなみのかみ) 足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)(仲哀天皇) (御祭日) 例大祭 6月15日(隔年 神幸祭) 月次祭 毎月 1日、15日 天満天神祭 5月25日 浅間神社祭 7月1日
智泉院の天水鉢(中央区民文化財) 鎧島山(がいとうさん)智泉院(天台宗)の本尊薬師如来は、平安中期の恵心僧都(えしんそうず)(源信)作と伝えられ、江戸時代には、山王権現の本地仏として、山王御旅所(現、日枝神社)内にありました。明治時代の廃仏棄釈(きしゃく)などの影響もあって、現在、この薬師如来は川崎市の等覚院に安置されています。 智泉院は、「茅場町薬師」の名で広く知られた名刹で、縁日には植木市も開かれ、江戸庶民の厚い信仰を集めていました。 瑠璃殿前の天水鉢は、天保12年(1841年)に本尊が開帳されたのを記念し、奉納されたもので、銘には当時の坂本(現、兜町)という町名や、町に住んでいた人々の名が刻まれています。鋳出した釜屋七右衛門は、通称釜七といって、江戸では有名な鋳物師でした。この天水鉢は、当時の賑わいを現在に伝えるものとして、中央区民文化財に登録されています。 平成6年(1994年)3月 中央区教育委員会 所在地 中央区日本橋茅場町3-13先
<戦災遭難死者慰霊碑>(左碑) 昭和20年(1945年)3月10日夜半の空襲により 全町焼失の際に遭難された霊を慰むる碑 昭和53年(1978年)3月10日 茅場町2,3丁目町会有志建之 発起人代表 神林 清作 石匠 高橋 正男
<大震火災遭難者追悼碑>(右碑) 大正13年(1924年)9月1日建之 所在地 中央区日本橋茅場町2-12 地図御用所は、実測による初めての日本全図を作製したことで知られる伊能忠敬(1745~1818)の住居に設けられていました。 伊能忠敬は、51歳の時にした下総国佐原(現在の千葉県佐原市)から江戸深川黒江町(現在の東京都江東区)に居宅を移し、幕府天文方高橋至時の門に入って天文学を学び始めました。 寛政12年(1800)からは本格的に日本全国の測量をはじめ、以降17年間にわたって日本全国の沿岸を測量し、その総距離は約4万kmにも及んだといいます。 文化11年(1814)、九州地方の測量から帰った伊能忠敬は、深川黒江町から八丁堀亀島町と呼ばれていた現在地付近へ転居しました。この屋敷の敷地は150坪ほどでしたが、伊能忠敬の居住地としてだけではなく、測量図を作製するための地図御用所として利用されていました。 伊能忠敬は地図が完成する前の文政元年(1818)に亀島町の居宅で死去してしまいましたが、その後も伊能忠敬の居宅は地図御用所として使用され、文政4年(1821)門弟や天文方の下役等の手により「大日本沿海與地全図」が完成しました。 平成17年3月 中央区教育委員会 所在地 中央区日本橋茅場町3-13 純子稲荷神社 御鎮座 元和2年(1616)11月20日 再建立御鎮座 昭和48年(1973)4月20日 神璽 伏見稲荷大社 御神名 純子大神 御祭神 豊受大神 宇迦之御魂大神 佐田彦大神 大宮能売大神 田中大神 四之大神 御神徳 精神、生命、生活、生業、生産 御神威 心身健全、家内安全、五穀豊穣、商売繁昌、福徳円満、芸能成就、往来安全 例祭日 2月初午の日 4月、11月御鎮座の日 元文2年(1737)11月20日 |
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