東京都中央区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 東京都指定旧跡 大正13年(1924)1月指定 著書には、『銀海波抄(ぎんかいはしょう)』『師談録(しだんろく)』『獺祭録(だっさいろく)』などがある。 PR この供養塔は文久元年(1861年)森孫右衛門の200年忌に、子孫の森幸右衛門勝鎮と親族の佃宇右衛門寛敏の両名により建てられています。 森孫右衛門は江戸時代以来、隅田川河口に佃島を築き、日本橋魚河岸のもととなる店を開いた人物とも伝えられています。 供養塔の右側面の銘文には、孫右衛門は摂津国(大阪府)佃村の人で、二代将軍徳川秀忠の時、漁猟の許可状及び33人の漁師の漁業権を拝領したことなど、佃島の漁師と徳川家との関わりが書かれています。 また左側面には、嘉永年間(1624~1644)に百歩四方の土地を賜り、島を築き、正保元年(1644年)2月に築城し、佃島と名付け、豊島郡に属した佃島の成り立ちや代々、佃島の名主を務めたことなどが刻まれています。これらは佃島の造営を語り伝える貴重な資料といえます。 東京都指定文化財 昭和4年(1929)5月 酒井抱一(さかいほういつ)(1762~1828)は播磨国(兵庫県)姫路藩主酒井忠仰(ただもち)の次男として江戸に生まれ育ちました。寛政9年(1797年)、江戸下向中の京都西本願寺文如(もんにょ)上人の弟子として出家し、等覚院文詮暉真と称し、抱一と号しました。 画筆に秀で、茶道・俳諧・狂歌等にも長じ、文人墨客とも交わりを深めた風雅の人でした。画技は狩野・土佐・円山等の諸派や浮世絵に通じていました。尾形光琳の画風に傾倒し、文化12年(1815)光琳の100回忌を営み、『光琳百図』などを出版しました。また、その画技をおさめて、『四季花鳥図屏風』『夏秋草図屏風』などを残しています。 門人には鈴木其一(きいつ)、池田孤村(こそん)、田中抱二(ほうじ)などがおり、抱一は京都の華麗な装飾画法である琳派(りんぱ)を江戸の地にふさわしい粋で瀟洒(しょうしゃ)な江戸琳派として完成させました。文政11年(1828年)11月根岸(台東区)の雨華庵で没し、翌月築地本願寺に葬られました。 所在地 中央区築地3-15-1 所在地 中央区銀座8-13先 (汐留遺跡)手水鉢(ちょうずばち) 龍野藩(兵庫県)脇坂家上屋敷内、祠(ほこら)の参道から出土した手水鉢(ちょうずばち)に刻まれた 『 奉献・羽団扇紋(はねうちわもん)・○月吉○ 』 など、当時の屋敷内が偲ばれます。 『銀恋の碑』 銀座の恋の物語 《作詞:大高ひさを 作曲:鏑木創》 心の底までしびれる様な 吐息が切ない囁きだから 泪がおもわず湧いてきて 泣きたくなるのさ この俺も 東京で一つ 銀座で一つ 若い二人が 始めて逢った 真実(ほんと)の 恋の 物語り
『銀座の象徴 柳並木』 銀座の柳は明治10年(1877年)頃銀座に植えられ銀座の象徴とされたが三度の変遷を経て昭和43年(1968年)銀座通りの改修と共に姿を消した。 このたび西銀座通りが東京都のシンボルロードとして歩道拡張と共に御影石舗装を施し面目一新されたことを機に並木を柳に代え銀座の象徴復活を果たした。 西銀座連合会はこの柳が末長く人々に愛され親しまれ続けることを願いここ数寄屋橋公園に碑を建立する。 平成11年(1999年)11月 西銀座通会会長 柳澤政一
所在地 中央区銀座2-6-12 明治15年(1882年)11月こヽに始めてアーク灯をつけ不夜城を現出した 当時の錦絵を彫刻してその記念とする 昭和31年(1956年)10月1日
御木本幸吉翁は本年九十五歳養殖真珠の創始者で真珠王の名は全世界に及んでいる當處南北十間の地は翁の店舗の場所である 昭和28年(1953年)4月 銀座通聯合会 所在地 中央区築地1-10 蘭方医桂川家は、初代甫築(ほちく)(1661~1747)が六代将軍徳川家宣に仕えて以来、代々幕府の奥医師をつとめ、多くが法眼(ほうげん)の叙せられています。 この地域には、甫築が正徳元年(1711年)に拝領して以降、幕末まで桂川家の屋敷がありました。 四代甫周(1751~1809)は、名を国瑞(くにあきら)といい、桂川家歴代のなかでも特に広く知られています。杉田玄白や前野良沢らに蘭学を学び、若くして『解体新書』の翻訳事業に参加しました。また、寛政6年(1794年)には幕府医学館教授となるなど、幕府にも重んじられていました。 西洋事情にも造詣が深く、安永元年(1772年)からは、江戸に参府したオランダ商館長一行と毎回対談するなど、その海外知識を大いに広めました。また、ロシア使節ラクスマンが送還してきた漂民大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)らを尋問し、『漂民御覧之記(ひょうみんごらんのき)』や『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』などを著しています。この他にも、多くの翻訳・著作があり、江戸蘭学の興隆に大きく寄与しました。 大正13年(1924年)、歌舞伎の伝統から離れた写実的演劇を目指す小山内薫、土方与志らにより建てられた近代演劇史上記念すべき劇場。 翻訳劇や創作劇を上演し、愛好者に感動を与えた。
『 碑文 里見弴 筆 大正末から昭和にかけ、新劇の本據として 大いにその發展に寄與した。戦災で焼失。 』 新富座は万治3年(1660年)木挽町5丁目(現在の銀座6丁目、昭和通り西側)に創建された『森田座』を引き継ぐ歌舞伎の劇場でした。 森田座は代々森田勘弥(かんや)が座元で、天保14年(1843年)浅草猿若町(現在の台東区浅草)に移り、安政5年(1858年)に『守田座』と改めました。明治5年(1872年)には、守田座12代勘弥が新富町に移転進出し、明治8年(1875年)に『新富座』と改称しました。 新富座は市川団十郎・尾上菊五郎・市川左団次などの名優を集めて積極的な興行を行ないました。劇場は近代的な様式を取り入れた大規模な建物で『東京第一の劇場』と称され、周辺には歌舞伎関係者が多く居住し、一帯は芝居町となっていました。 明治22年(1889年)に歌舞伎座が開場するまで芝居興行の中心的存在でしたが、大正12年(1923年)の関東大震災で焼失しました。 明治期の錦絵には海鼠壁(なまこかべ)の上に絵看板を並べた大劇場の様子が見え、往時の繁栄ぶりがうかがえます。 所在地 中央区日本橋本石町3-1 常盤橋門は江戸城外郭の正門として奥州道に通じ、敵の侵入を防ぎ、味方の出撃を容易にする為、大きな切石で積み上げられた「コ」の字型の枡形門である。また天正18年(1590)架橋といわれる旧常盤橋は、両国橋がかかるまで江戸一の大橋であった。現在の石橋は門跡の石等も使い、明治10年(1877年)に改架したもので、洋式石橋の創始といわれている。この常盤橋の名称は、家光の時代 『 色かへぬ 松によそへて あづま路の 常盤の橋に かかる藤なみ 』 の歌に因みつけられたものといわれる。 所在地 中央区京橋3-4先 寛永元年2月15日、元祖猿若中村勘三郎、中橋南地と言えるこの地に猿若中村座の芝居櫓を上ぐ。 これ江戸歌舞伎の濫觴也。茲に史跡を按じ斯石を鎮め國劇歌舞伎発祥の地として永く記念す。 昭和32年(1957年)7月建立 江戸歌舞伎旧史保存会 所在地 中央区築地7-3-10 明治21年(1888年)我国工業の黎明期に當り、この地に工手学校が創設された。爾来、工業界の各分野に有能な技術者を送った数は実に三萬を越え、その發展に多大の貢献を致した事は周知である。 関東大震災(1923年)の後、昭和3年(1928年)出身者の熱意と努力により新宿に宏壮な校舎が建設され校名も工学院と改められ、辞世の進運に即して終始發展充実を続けて来た。更に昭和24年(1949年)に至り、学園に工学院大学が設立され最高の工業教育機関として工業報国の伝統精神を發揚しつつある。 近く創立70周年を迎えんとし先輩の遺徳を偲び後進の發奮を促すため有志相図り学園發祥の地に記念碑を建てる。 所在地 中央区銀座3-14先 専修大学は、明治13年(1880年)9月16日、ここ東京市京橋区木挽町2丁目14番地に経済及び法律の専修学校として発足したことに始まる。 創立者は相馬永胤、田尻稲次郎、目賀田種太郎、駒井重格の諸先達で建学の精神は、社会に対する報恩奉仕であり、質実剛健、誠実力行は学風である。 所在地 中央区日本橋1-4 COREDO日本橋(コレド日本橋) 白木屋は現在、COREDO日本橋(コレド日本橋) 昭和23年(1948)、常連の巨人軍の千葉茂さんに、東京・銀座の洋食店グリルスイス店主・庄子静子に、「カレーライスにトンカツをのせてくれ」と頼まれて作ったのが、カツカレーのはじまりです。 所在地 中央区明石町1-15 これは、ガス灯を点ずるための街灯柱です。高さは3.4mで柱は鋳鉄製、コリント風の様式をとり、柱頭・柱身・基部の部分から成っています。柱頭のランプ部分は後に付けられたものです。柱頭の下には左右に長さ20cmの腕金が出て、柱身の下部には繰型が見られます。この街灯柱は明石町の築地居留地で使用されたと伝えられています。 当時は、夕方になると点火夫が長い棒の先に鍵と点火具の付いたものを持って、ランプの底を開いて点灯し、夜明けには、ガスのバルブを閉じて消灯して歩いていました。 日本の都市ガス事業の始まりは、明治5年(1872年)に横浜の外国人居留地でしたが、東京は翌明治7年(1874年)銀座煉瓦街の完成を機に、西村勝三・フランス人プレグランらが、芝浜崎町にガス灯85基を建て、明治7年(1874年)12月に点灯したのが最初といわれています。ガス灯の明るさは当時の人々を驚かせました。 所在地 中央区明石町8先 ここは明治初年にあった築地居留地の18号地で英国人医師ヘンリー・フォールズ(1843~1930)が明治7年(1874年)から明治19年(1886年)に至る滞日中に居住したところである。 フォールズはスコットランド一致長老教会の宣教師として来日しキリスト教布教のかたわら築地病院を開いて診療に従事し、また日本人の有志とはかって盲人の保護教育にも尽力した。 彼はわが国で行われていた指印の習慣に興味をもちたまたま発掘された土器に印象されていた古代人の指紋を発見し、これにヒントを得てここではじめて科学的な指紋の研究を行なった。 明治13年(1880年)10月英国の雑誌『ネイチャー』に日本から投稿した彼の論文は科学的指紋法に関する世界最初の論文といわれ、その中で早くも犯罪者の個人識別の経験を発表し、また指紋の遺伝関係にも言及している。 明治44年(1911年)4月1日、わが国の警察においてはじめて指紋法が採用されてから満50年の今日、ここゆかりの地に記念碑を建立し、その功績をたたえるものである。 所在地 中央区築地7-2 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866)は、オランダの商館医院として文政6年(1823年)7月、長崎に到着し、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍した。 文政9年(1826年)正月、商館長と共に江戸へ向かい、文政9年(1826年)3月4日、日本橋の長崎屋に止宿し、文政9年(1826年)4月12日出発するまでの間、江戸の蘭学者に面接指導し大きな影響を与えた。しかし、文政11年(1828年)9月シーボルト事件が発生し、文政11年(1828年)12月に日本から追放された。後に安政6年(1859年)幕府顧問として再来日したが、まもなく帰国しミュンヘンで没した。 彼の江戸における指導は、江戸蘭学発展のために貢献するところが大きかった。この地が江戸蘭学発祥の地であり、且つ彼が長崎でもうけた娘いねが築地に産院を開業したこともあり、また明治初期から中期にかけてこの一帯に外国人居留地が設けられていたことから、ここに彼の胸像を建て、日本への理解と日蘭の橋渡し役としての功績に報いるものである。 所在地 東京都中央区明石町13 明治2年(1869年)9月19日(太陽暦10月23日)、横浜裁判所と東京築地運上所内に設けられた「傳信機役所」を結ぶ約32kmの電信線架設工事が開始され、同年12月25日に業務を開始した。これが、我が国における公衆電信通信の最初である。 この記念碑は、先駆者はの業績を後世に伝えるため、昭和15年(1940年)に建立されたもので、昭和53年(1978年)、南南東約40mの地点から当地へ移設されたものである。
所在地 中央区日本橋浜町2-57先 新大橋西詰
所在地 東京都中央区明石町10 (東京都選定歴史的建造物)
築地明石町は外国人居留地で、外国との東京における最初の窓口であった。このような歴史的由緒のある場所にふさわしい建物がこの病院である。
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