東京都中央区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 中央区新川1-8地域 江戸時代、この地域には幕府の御用商人として活躍していた河村瑞賢(1618~1699)の屋敷がありました。 瑞賢(瑞軒・随見とも書く)は、伊勢国の農家に生まれ、江戸に出て材木商人となりました。明暦3年(1657年)の江戸大火の際には、木曽の材木を買い占めて財をなし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い莫大な資産を築きました。また、その財力を基に海運や治水など多くの事業を行いました。 瑞賢の業績の中でもとくに重要なのは、奥州や出羽の幕領米を江戸へ廻漕する廻米航路を開拓して輸送経費・期間の削減に成功したことや、淀川をはじめとする諸川を修治して畿内の治水に尽力したことがあげられます。晩年にはその功績により旗本に列せられました。 斎藤月岑(さとうげっしん)の「武功年表」によると、瑞賢は貞享年間(1684~1688)頃に南新堀一丁目(当該地域)に移り住み、屋敷は瓦葺の土蔵造りで、塩町(現在の新川1丁目23番地域)に入る南角から霊岸島半丁一円を占めていたと記されています。表門は今の永代通りに、裏門はかつて新川1丁目7番・9番付近を流れていた新川に面し、日本橋川の河岸には土蔵四棟があり、広壮な屋敷を構えていたようです。 「御府内沿革図書」延宝年間(1673~1681)の霊岸島地図を見ると、瑞賢が開削したとされる堀割に新川が流れ、その事業の一端を知ることができます。 所在地 中央区八重洲1-11先 (東京都指定有形文化財) 江戸時代も後期に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。 迷子がでた場合、町内が責任をもって保護することになっていたので、付近の有力者が世話人となり、安政4年(1858年)にこれを建立したものである。 柱の正面には「満(ま)よい子の志(し)るべ」、右側には、「志(し)らする方」、左側には、「たづぬる方」と彫り、上部に窪みがある。利用方法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙をはり、それを見る通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を書いた紙を窪みに貼って迷子や尋ね人を知らせたという。いわば庶民の告知板として珍しい。このほか浅草寺境内と、湯島天神境内にもあったが、浅草寺のものは戦災で破壊された。
所在地 中央区日本橋小網町16-23
小網神社
社伝によれば、小網神社は小網山万福寺を別当寺として、室町時代中期、当地に祀られた稲荷社に起源するという。稲荷社は、明治時代初めの神仏分離令により、小網神社と称し、東堀留川の河岸地の一画であった現在地を社地と定めた。そして現在、小網町及び人形町の一部の氏神として、また東京下町に広く信仰を集めている。 所在地 中央区日本橋兜町1-8 江戸時代、弘化2年(1845年)版の「楓川鎧の渡古跡考」の地図に、牧野亭の東北隅鎧の渡附近に鎧稲荷(平将門を祭ったのが起源ともいわれている。)と兜塚が描かれており、この頃既に当地の鎮守として又魚河岸へ出入りする漁民により信仰を集めていた。 明治4年(1871年)、東京商社(三井物産の前身にあたる商事会社)の移転に伴い、鎧稲荷と兜塚は鎧の渡と兜橋の中間に遷された。この時兜塚として祭られていた源義家公の御神霊を、兜神社として社を創建して祀り、更にこの神社は鎧稲荷と合併して、新たに兜町の鎮守・兜神社として定められた。 明治7年(1874年)、お祀りする祭神に変更があって、祭神源義家公の祭祀を廃止して、新たに三井家(兜町1丁目の土地を所有する地主)の信仰していた三囲稲荷神社(みめぐりいなりじんじゃ)(墨田区向島2丁目に鎮座)の境内摂社である福神社より大国主命(おおくにぬしのみこと)と事代主命(ことしろぬしのみこと)のご分霊を勧請して合祀した。 明治11年(1878年)、東京株式取引所の設立に伴い、当取引所が兜神社の氏子総代となり以来証券界からの信仰を集めるようになる。 昭和2年(1927年)、日本橋川と楓川の分岐点の角地・兜橋東詰北側の62坪の敷地(現在の場所)に再度移転し、鉄筋コンクリート造りの社殿を造営した。 昭和46年(1971年)、高速道路の建設に伴い旧社殿を解体し、現在の鉄筋コンクリート、一間社流造(いっけんしゃながれづくり)・向排(ごはい)付きの社殿を造営し現在に至っている。 <御祭神> 主なる祭神は商業の守護神とたたえまつる倉稲魂命(うかのみたまのみこと)(=稲荷神の別名)。合祀の神は右に大国主命(おおくにぬしのみこと)(=大黒様)、左に事代主命(ことしろぬしのみこと)(=恵比寿様)をまつる。 <祭儀> 毎年4月1日に例大祭がとり行われる <御神体> 神石(京都伏見稲荷の神体山の神石) <御神札> 太政大臣三条実美公(太政大臣在任期間 明治4年~明治18年)の御社号を染筆した神札が奉納されている。 吉田松陰先生は天保元年(1830年)8月4日長州萩の東郊松本村で杉家の二男として生まれた。幼い頃に吉田家をついだ。成人しての名を寅次郎という。吉田家は代々山鹿流兵学師範の家であったので、早くから山鹿流兵学その他の学問を修め、その道を究めて、子弟の教育につとめた偉人である。安政元年(1854年)3月師の佐久間象山のすすめで海外渡航を計画し、下田から米艦に便乗しようとして失敗、下田の獄につながれたが伝馬町獄送りとなって途中、高輪泉岳寺の前で詠んだのが有名な次の歌である。 かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂 安政元年(1854年)9月まで約6ヶ月間伝馬町獄に留置されていたが、国元萩に謹慎の身となって帰って後の松下村塾での教育が最も偉大な事業であろう。薫陶を受けた中から有爵者6名、贈位者17名、優位者14名等多くの著名の士が出て中でも伊藤博文、山県有朋、木戸孝允等は、明治維新の大業に勲功のあった人物である。わが国歴史の上での三大変革といえば大化の改新、鎌倉幕府の創立、明治維新の三であるが、その明治維新にこれら松下村塾生の働きが大きな力となったことを深く考えたいのである。 後松蔭は安政の大獄に連座して再び伝馬町獄に入牢となった。安政6年(1859年)7月9日江戸の長州藩邸から始めて評定所に召出されたが、その時 まち得たる 時は今とて 武蔵野よ いさましくも鳴く くつわ虫かな と決心を歌にのべている。しかし幕府の役人を動かすことが出来ず、その後の3回の取調べで死刑を覚悟した10月22日に父、叔父、兄へ宛て永訣の書を送っているがその中にあるのが 親思ふ 心にまさる 親ごころ けふのおとづれ 何と聞くらん の一音である。また処刑の時の近づいたのを知って10月25日より26日の黄昏までかかって書きあげたのが留魂録でその冒頭に 身はたとひ 武さしの野辺に 朽ちぬとも とどめ置かまし 大和魂 十月念五日 二十一回猛士 と記してある。松蔭はこれを同囚で八丈島に遠島になった沼崎吉五郎に託したが20年後当時神奈川県令で塾生であった野村靖に手渡したものが現在残っている留魂録である。それによって当時の法廷の模様、訊問應答の次第、獄中の志士の消息等がわかり、自己の心境と塾生の行くべき道を示したもので崇高な松蔭魂の指南書ともいえるものである。 安政6年(1859年)10月27日は処刑の日であった。揚屋を出る松蔭は次の詩をを高らかに朗吟して同囚の士に訣れを告げたのである。 「 今吾れ国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り 」 次いで刑場では「身はたとひ」の歌を朗誦して従容として刑についた。 行年30歳明治22年(1889年)2月11日正四位を贈位され昭和14年(1939年)6月十思小学校々庭に留魂碑が建設された。 所在地 中央区日本橋茅場町1-6-10 蕉門十哲のひとり室井其角(1661~1707)は、芭蕉没後派手な句風で、洒落風を起こし、その一派は江戸座と呼ばれた。 所在地 中央区新川2 江戸初期に隅田川に至る亀島川の下流の左岸(新川側)に、幕府の御船手組屋敷が設置され、戦時には幕府の水軍とし、平時には天地丸など幕府御用船を管理した。 大阪の陣で水軍を率いて大阪湾を押さえた功績により、御船手頭に任ぜられた向井将監(しょうげん)忠勝(1582~1641)を始め、向井家は代々将監を名乗り御船手頭を世襲したことから、亀島橋下流から隅田川に至る亀島川の左岸(新川側)を将監河岸と呼ぶようになった。 また、明治22年(1889年)に東京湾汽船会社が設立され、御船手組屋敷跡に霊岸島汽船発着所が置かれ、房総半島、伊豆半島、大島、八丈島等に向けて海上航路を運営し、明治・大正・昭和初期にわたり港町の伝統を引き継いでいった。
所在地 東京都中央区八丁堀 東洲斎写楽は江戸時代の浮世絵師。天明から寛政間頃の人。 寛政6年(1794年)5月から翌寛政7年(1795年)の正月までの10ヶ月間で、役者絵、相撲絵の版画約140点を製作した。 写楽は、それまでの常識を覆す雲母(きら)摺りの豪華な背景と、リアルな表情と姿態を描き、日本を代表する浮世絵師の一人として世界に知られている。 写楽の生涯や正体は不明な点が多かったが、幕末の考証者・斎藤月岑(げっしん)は「増補浮世絵類考」(1844年)で「写楽は江戸八丁堀に住む阿波藩の能役者の斎藤十郎兵衛」と記載した。 さらに、1997年埼玉県越谷市の法光寺に残る過去帳に「江戸八丁堀地蔵橋に住み、阿波藩に仕える斎藤十郎兵衛が文政3年(1820年)3月7日に58歳で死亡した」との記述が発見され、「写楽と斎藤十郎兵衛が同一人物」で、ここ八丁堀に居住していたとの説が注目されるようになってきた。 所在地 中央区築地6-20 明治7年(1874年)海軍会計学舎が芝山内天神谷に設けられたが、のち幾変遷を経て明治40年(1907年)これが海軍経理学校となった。 その間明治21年(1888年)校舎は築地に移されたが、その敷地は松平定信邸の浴恩園の跡に当たった。明治時代その付近には海軍の施設が多くその一帯は海軍発祥の地とも称されている。 校舎はさらに幾度かの移改築を経て、昭和7年(1932年)この西側築地の一角に移築されたが、太平洋戦争中就学人員激増のため品川ほか地方三か所に校舎を増設した。 戦後の海軍解体に伴い昭和20年(1945年)9月同校は約70年の歴史を閉じた。その間の出身者は数万余をかぞえ輝かしい功績を残したが、戦後もわが国復興の中核となって活躍した。 戦後30年を機にここにその栄誉と同校の跡を記念してこの碑を建てる。 所在地 中央区日本橋馬喰町2丁目付近 江戸時代に、関東一円及び東海方面など、各地にあった幕府の直轄地(天領)の、年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった跡です。 関東郡代は、徳川家康が関東に入国したときに、伊奈忠次(ただつぐ)が代官頭に任命され、後に関東郡代と呼ばれるようになり、伊奈氏が十二代にわたって世襲しました。その役宅は初め、江戸城の常盤橋御門内にありましたが、明暦の大火(1657)で焼失し、この地に移りました。 伊奈忠尊(ただたか)が罪を得て失脚した寛政4年(1792年)以後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねてここに居住しました。 文化3年(1806年)に焼失した後、代官待ちとなって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。 所在地 中央区日本橋・中央区八重洲・中央区日本橋室町・中央区日本橋本石町 このあたりは、江戸時代より我が国の商業・経済の中心地として、栄えてきました。 この橋は、日本橋から一石橋までの日本橋川右岸地域が、西河岸町という地名であったことから”西河岸橋”と名付けられたものです。 初代の橋〔明治24年(1891年)架設〕は、弓弦形ボウストリングトラスという、当時最新式の鉄橋でした。関東大震災(1923年)により被害を受けたこの橋は、大正14年(1925年)に現在の橋に架け替えられました。 中央区では、架設後65年を経過したこの橋を平成2年度において、痛んだ部分を修復し、さらに伝統的な木造建築様式の木組みを採りいれた意匠で整備しました。
形式 3径間連続鋼構桁橋 橋長 52.0m 有効幅員 11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2) 橋下 日本橋川 着工 大正13年(1924年)12月 竣工 大正14年(1925年)8月 施工者 東京市
所在地 中央区京橋1-9
安藤広重住居跡(歌川広重住居跡・安藤鉄蔵住居跡)
所在地 中央区日本橋堀留町1-10-2 (椙森神社) 所在地 中央区日本橋堀留町2-4-10
所在地 中央区東日本橋2-26
明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。その際このあたりで逃げ場を失って焼死する者が多数出た。このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた。隅田川は当時武蔵下総両国の境界をなしていた。
所在地 中央区東日本橋2-6-8 (薬研堀不動院)
所在地 中央区東日本橋2-6-8 所在地 中央区日本橋本石町4-2先 この橋は、大正15年(1926年)に造られた日本最初の鉄筋コンクリートトラスの大変めずらしい橋です。 もともと、神田の堀に架けられていた龍閑橋は、堀を埋め立てることで必要なくなりました。同じころ、この付近に開かれた新しい川に、いらなくなった橋をそのまま架けたのが、現在の龍閑橋の地名の由来となっています。まだ無名だったその新川は、橋の名前にちなんで「龍閑川」と名付けられました。今は無き龍閑川は、その昔、神田と日本橋の両区を分割するものでした。 また、「龍閑」という名については、龍閑川の西端にあった町に、旧幕府坊主の「井上龍閑」と言う人の家があったことに由来します。
所在地 中央区東日本橋2-6-8 (薬研堀不動院)
所在地 中央区東日本橋2-6-8 (薬研堀不動院) |
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