東京都中央区の歴史
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『日枝』とは近江国比叡山(日枝山といわれていた)に因む名であり、大津市坂本の日吉大社(ひえたいしゃ)を本祠とする。伝教大師最澄が比叡山に延暦寺を開き、日枝の神を一山の鎮守、天台宗の守護神としたことから、天台宗の教線拡大に伴って各地に勧請された。
(本社) 山王日枝神社 千代田区永田町2 (御祭神) 主祭神 大山咋神(おおやまくいのかみ) 相殿 国常立神(くにのとこたちのかみ) 伊弉冉神(いざなみのかみ) 足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)(仲哀天皇) (御祭日) 例大祭 6月15日(隔年 神幸祭) 月次祭 毎月 1日、15日 天満天神祭 5月25日 浅間神社祭 7月1日 所在地 中央区日本橋・中央区日本橋兜町 亀井橋は、明治5年(1872年)2月の銀座大火の後、旧津和野藩主伯爵亀井茲濫の私費にて架設されたと言われ、橋名は架設した亀井氏の名に由来するものと思われます。 現橋は、昭和3年(1928年)5月帝都復興事業として改築されましたが、下図は、昭和32年(1957年)頃の亀井橋の姿です。亀井橋の下には、かつて築地川が流れていましたが、昭和39年(1964年)の東京オリンピックにあわせて埋め立てられ、高速道路となりました。 中央区では、平成5年(1993)度に『水の流れを基調とするイメージ』で景観整備しました。
<橋梁の緒元> 形式 3径間連続鈑桁橋 橋長 36.2m 有効幅員 15.0m(車道8.0m 歩道3.5m×2) 建設年次 昭和3年(1928年)5月 施工 復興局
平成6年(1994年)3月 東京都中央区 所在地 東京都中央区浜離宮庭園 重要文化財(特別名勝特別史跡) 昭和22年(1947年)指定 この地は もと将軍家鷹狩の場所であったが承応3年(1654年)甲府宰相 松平綱重が埋立て別邸とし、甲府浜屋敷または海手屋敷といわれた。ついで6代将軍 徳川家宜これを改めて浜御殿と改称し大いに改修を行い景観を整えた園内には、茶園、火薬所、織殿等が営まれ幕末には、石造洋館、延遼館の建設をみた。維新後、宮内省所管となり、園地を復旧し、皇室宴遊の地にあてられ、名も浜離宮と改められた。諸外国貴賓来訪の際には、延遼館はその迎賓館にあてられ明治天皇も賜宴のためしばしば本園に行幸せられ、特に明治12年(1879年)、米国前大統領グラント将軍が、わが国を訪問せられた際には親しく本園中の島茶屋において引見せられた。園は江戸時代に発達した大名庭園の代表的なものであって現存する汐入の庭の典型的なものとして貴重な文化財である。 昭和23年(1948年)12月 文部省 所在地 東京都中央区日本橋兜町15 坂本町公園は、明治22年(1889年)に東京における最初の市街地小公園の先駆けとして、この地(旧日本橋区坂本町)に開園した。開園当時は、樹木うっそうとし風雅な涼亭を備えた和風庭園だったが、関東大震災によって全焼し、震災後避難民収容施設、仮校舎等の敷地に使用され、非常時における都市公園の機能が十分発揮された。その後復興事業により区画整理され、小学校と公園とが一体的に利用できる、児童コーナーを設けた洋風の公園になった。太平洋戦争時、東京大空襲によって再び焼失。戦後、戦災者用仮設住宅の敷地として使用され、その後児童公園として、様々な改良整備が行われ現在の公園になる。 明治時代の坂本町公園[明治22年(1889年)] 当時の坂本町公園は、現在の公園よりも広く桜や梅、柳の木が多かったと記録されています。公園の中央には東屋がありました。 所在地 中央区銀座3-7-14 スターバックスコーヒージャパン銀座松屋通り店
智泉院の天水鉢(中央区民文化財) 鎧島山(がいとうさん)智泉院(天台宗)の本尊薬師如来は、平安中期の恵心僧都(えしんそうず)(源信)作と伝えられ、江戸時代には、山王権現の本地仏として、山王御旅所(現、日枝神社)内にありました。明治時代の廃仏棄釈(きしゃく)などの影響もあって、現在、この薬師如来は川崎市の等覚院に安置されています。 智泉院は、「茅場町薬師」の名で広く知られた名刹で、縁日には植木市も開かれ、江戸庶民の厚い信仰を集めていました。 瑠璃殿前の天水鉢は、天保12年(1841年)に本尊が開帳されたのを記念し、奉納されたもので、銘には当時の坂本(現、兜町)という町名や、町に住んでいた人々の名が刻まれています。鋳出した釜屋七右衛門は、通称釜七といって、江戸では有名な鋳物師でした。この天水鉢は、当時の賑わいを現在に伝えるものとして、中央区民文化財に登録されています。 平成6年(1994年)3月 中央区教育委員会
この橋は、築地川の屈曲した地点に、楓川と結ぶ水路(楓川・築地川連絡運河)が開削され、川が三叉の形となった所に、関東大震災後の復興計画の一環として、昭和4年(1929年)12月に三叉の橋が架けられました。 ここに川が存在し、人々の暮らしも川を中心に営まれ、川筋を酒荷の船などが通った情緒ある風景も、今は埋立てられ高速道路と化し、陸橋となりました。 中央区では、平成4,5年にわたり、高欄には水辺に映える木立ちの姿を採り入れ、照明は架設した当時の鈴蘭燈に、又一時期高速道路のランプとなり一部撤去された歩道も復元し、古き風情を感じさせるデザインで修景しました。 平成5年(1993年)8月 東京都中央区 橋梁の諸元 形式 三股型単純鋼板桁橋 橋長 23.98m×3 有効幅員 15m(車道9.0m・歩道3.0m×2) 建設年次 昭和4年(1929年)12月 復興局施行
所在地 東京都中央区銀座3-8-12 朝日稲荷神社は古来より当地に鎮座し守護神として厚く奉斎され、遠近の崇敬を集めていた。しkしながら、安政の大地震により社殿倒壊し、三十間堀に幽没して以来、社地は荒廃し浮浪の徒付近に散集して見るかげもなかった。 大正6年(1917年)、銀座を襲った大海嘯によって、三十間堀より霊体が顕れた。建築業館岡其が当地に奉安したが、関東大震災により転地を余儀なくなくされ、神社は銀座三丁目町会の奉斎するところとなった。町内崇敬者一同神威を畏み奉り、町内守護神として奉斎しようとしたが、当時社地は東京市有地に編入され東京市の管理化にあった。三丁目崇敬者は時の東京市助役を訪ね、社地の下附を懇願したが叶わなかった。しかしながら、土地使用黙許の許可を得、社殿が建立され、社地は整えられた。初午が盛大に祝われ、縁日は四丁目の出世地蔵尊のそれと伍して多くの人々を集めた。こうした町内守護神として広大な神徳を顕わすにいたったが、戦災のため社殿はことごとく烏有に帰した。 戦後社殿を再建し、昭和27年(1952年)宗教法人朝日稲荷神社となる。以後三丁目町内会によって厚く奉斎され、その神威はいいや増して広文、信心する者にあまねく守護を及ぼしている。 昭和58年(1983年)、隣地の大広ビル改築にともない、共同ビルを建築するにいたった。ビル一部の1・2階を吹抜け拝殿とし、本殿を屋上に安置したが、パイプにより大地につながり、拝殿での参拝が本殿に届くよう工夫されている。時代に先駆ける銀座の地にふさわしい神社となった。 毎年初午に盛大に祭を催しまた、大銀座まつりの際は銀座八丁神社巡りの札所として、銀座三丁目にとどまらず、多くの人々の崇敬を集めている。 商業の神として商売繁盛はもとより、当地に鎮座して以来火災なく、また縁結び、家内円満にもその神威はとどまるところを知らない。 所在地 東京都中央区銀座4-4-2先 明治14年(1881年)男爵高水兼寛英国医学教授ノ目的ヲモッテコノ地ニ成医会講習所ヲ開設ス コレ東京慈恵会医科大学ノ濫觴ナリ 創立百年ヲ記念シコノ碑ヲ建ツ 昭和55年(1980年)5月1日 第7代学長 名取禮二 所在地 中央区八丁堀3丁目 京橋2丁目 そもそも身延別院に安置する油かけ大黒天の由来を尋ぬるに、現代の名優長谷川一夫氏は京都伏見の出生にしてそこに油かけ町あり、昔油を売る商人道端の石像に間違って油をかけて以来商売が大繁昌せりと。同しげ夫人は神仏に厚く帰依し、戦後間もなく、隅々この油かけ天神が夢に出て、帝都に祀り衆人と結縁せしめよとの霊夢を蒙り早速身延別院の住職藤井日静上人(後の身延山86世法主)に相談すると、上人膝を打ちて喜ぶ。 上人亦幼少の時、藤井家正に火災発生せんとするや大黒天神が槌を以て幼児を撃たんとす。驚いて目覚め裏に逃げて発火地点に至る。火防の大黒天として祀って来たれり 長谷川一夫同しげ夫人施主となり、油かけ天神を祀る由来なり。 日蓮大聖人弘安二年の『大黒天神御書』に云く、大黒天神は釈迦如来の後身、上行菩薩の垂迹(衆生を救うために仮の姿をとって世に出現す)なり。然れば無量の寿福円満せざるということなし。故に大黒という。亦大暗夜叉と云ひ、或は闘戦塚間浴油神とも云う。油を以て灰身を浴して所求を成ずるが故に、凡そ崇高の宝冠を改めて卑下の烏帽子を著し、阿雲の玉体を秘して塗炭の黒身を現す。右の手には一実中道の槌を捧げ法報応の三身を知らしむ。左の手には円教の袋を執て肩にかけて万法円備の真諦を顕す。極位の宝座を下りて道祖の草鞋を履いては浴諦常住の理を知らしむ。如説而修行其福不可限、受持法華名者福不可量、所願不虚亦於現世得其福報。 弘安2年(1279年)4月10日 日蓮 花押 祭日 甲子の日 殊に年の始めと終りの甲子を大切にして参詣すべし。開運、安産、商売繁昌。福徳円満ならしむ 身延別院 所在地 中央区銀座 (東京メトロ銀座駅) 早川徳次(のりつぐ)氏(1881~1942)は明治14年(1871年)年山梨県に生まれ。 帝都高速度交通営団の前身である東京地下鉄道株式会社を創設、幾多の困難を克服する。 昭和2年(1927年)12月30日アジアで最初の地下鉄 浅草~上野間(2.2km)開業させ、引き続いて銀座へ新橋へとレールを伸ばし、今日に見る地下鉄時代の礎を築きました。 この石は、もと小判鋳造金座後藤家の別荘にあった佐渡の赤玉石であります。 江戸末期、たまたま同家に招かれた榮太樓初代細田榮太郎は、本石に魅せられ、その別荘ごと譲り受け今日に至っています。 佐渡の赤玉石は赤味が強く、その光沢は他に類を見ない日本の銘石の一つでありますが、この石のように人手を加えず姿かたち・艶のよいものは極めて少なく、好事家の間に「榮太樓の赤玉石」として知られています。 人形町から日本橋に通じる道に、親父橋と呼ぶ橋が架かっていました。 この周辺の芳町には、江戸の頃から口入宿が軒をつらねるようにありました。 以前は職業安定所、いまのハローワークには大勢の人が集まり、就職(奉公)先を選ぶ姿が、各々の店で見られたのが早朝の風景でした。江戸はもちろん近隣から集まってきて、生業に付きたい雇われを望む人、つまり職を求める人の希望を、次から次と帖面に書きとめる貼付けの役は、えんまと呼ばれている番頭でした。午前7時頃になると、一同に集まった広場で貼付けのえんまが、何処の何屋または何商売の飯炊き、あるいは出前持ちはどうか、と云うように職を斡旋するのが口入宿(くちいれやど)でした。 明治になって早々から人形町通りが確立し、各店が並び繁昌したのは、江戸時代からここ一ヶ所に在った口入宿街に、毎日のように大勢の人が集まってきたのも、人形町繁栄の一助であったはずです。 横丁の郷土史家 有田芳男
所在地 中央区日本橋人形町1-1・日本橋小網町14・日本橋蛎殻町1-10~13
作 松橋博 中田浩嗣 所在地 中央区日本橋人形町1-6-10先 あやつり人形のバネは今でも鯨ヒゲが使われています。 特に人形浄瑠璃から伝承された文楽人形の命とも言える精妙な首の動きは、弾力に富んだ鯨ヒゲでなければ出せないそうです。 ここ人形町一帯は寛永10年(1633年)頃から、江戸歌舞伎の「市村座」「中村座」、人形浄瑠璃の糸あやつり人形結城座、手あやつり人形の薩摩座などの小屋が集まり、江戸町民の芝居見物が盛んでした。 そして、それらの人形を作る人形師や雛人形、手遊物などを商う店がたくさん立ち並んでいたところから、昭和8年(1933年)、正式に人形町という地名になりました。 中央区は 昭和63年(1988年)に 世界の恒久平和と人類の永遠の繁栄を祈念し『平和都市宣言』をいたしました。 段上の三角形のアーチは この宣言を記念するモニュメントとして設置したものです。 この平和の鐘は オランダ製で26個のベルによって四季おりおりのメロディを奏でます。 設置 平成元年(1989年)3月15日 東京都中央区 江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永12年(1635年)に江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心組屋敷の町が成立しました。その範囲は茅場町から八丁堀一帯に集中しています。 八丁堀といえば捕物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた、江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。着流に羽織姿で懐手(ふところで)、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていました。 初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力10人、同心50人から始まってのち、南北両町奉行が成立すると与力50人、同心280人と増加し、両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行200石、屋敷は300~500坪、同心は30俵2人扶持(ぶち)で、100坪ほどの屋敷地でした。 これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍したのですが、生活費を得るため町民に屋敷地を貸す者も多く、与力で歌人の加藤枝直・千蔭父子や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られています。 平成13年(2001年)3月 中央区教育委員会 |
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永山
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