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東京都中央区の歴史
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所在地 中央区築地6-20先(東京都中央卸売市場築地市場)

 現在、中央卸売市場となっている一帯の土地は、かつて、江戸幕府の軍艦操練所があったところです。

 安政4年(1857年)4月、外洋航海の必要性から幕府は旗本、御家人、その他の希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習およびオランダから購入した軍艦の運転を練習させる学校を設置しました。軍艦操練所と名付け、頭取(向井将監・勝海舟等が就任)以下、教授方出役・取調方等を任命しました。
 
 元和元年(1864年)に焼失して、南隣りの松平安芸守の屋敷に仮移転し、慶応2年(1866年)7月、海軍所と改称しました。同年11月、再び類焼して現在の浜離宮に移り、跡地には、日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館が建ちました。

  平成11年(1999年)3月 中央区教育委員会



所在地 東京都中央区築地6-20-37(波除神社)

 すし塚の由来

すし 日本の風土に育ち日本の誰れもがこよなく愛し 自慢している食べ物 それが すし 永い永い伝統の中にある すし しかしその歴史の蔭にいくたの魚介が 身を提してくれたであろうか 世人の味覚をたのしませ そして また わたし達のたつきの基になってくれたさかなたち それらあまた魚介の霊を慰めとわに鎮まれしと祈り 而して永遠の食物としてのすしを表徴するため ここゆかりの地にすし塚を建てたゆえんである

 昭和47年(1972年)11月1日

組合設立20周年記念
発起人
大前錦次郎  須崎勝久  西川伊三郎
大野泰治  佳藤木一整  田中仁作
小倉一祐  酒井順一  今関義三郎
五十嵐信一  加原松之助  目崎国治
中原秀作  清水金造  関口寿夫
稲垣実  永谷友重  槁本正作
保佳辰太郎  高野新太郎  堀川喜美
田中好夫  若林東二  加藤亦助
飯塚一  木歩士正男  中川吉治
毛利鋼三  丸槁権八  永原徳
根津正雄  吉野曻雄  山根操
倉田華太郎  深井周二  佐藤安忠
森一郎

外4,200名組合員の総意により建之

 東京都鮨商環境衛生同業組合


所在地 東京都中央区築地6-20-37(波除神社)


 神田    天政
 銀座    天國
 神田    天米
 中野    天米
 有楽町  天米
 道潅山  天米  
 高円寺  天米
 富士市  天米
 京橋    天七
 横浜    天七
 湯島    天庄
 日本橋  天茂
 麹町    天重
 新川町  天勘
 新富町  さが和
 浅草    三定本店
 日本橋  京縣
 花川戸  金泉
 雷門    三祐
 八重洲  味覚
 築地    三ッ田
 赤坂    ひろ木
 北馬込  七環峠
 京橋    ヒゲの天平
 日本橋  本山
 銀座    茂竹
               いろは順

昭和48年(1973年)9月
  世話人 森龍 春原一雄 小黒春雄 中村国雄 福島金次


所在地 東京都中央区築地6-20-37(波除神社)

 東京築地魚市場活物組合 組合長 水留 石川留吉

  昭和58年(1983)5月吉日 建立


所在地 東京都中央区築地6-20-37(波除神社)


東京鶏卵加工業組合創立30周年記念

 すし玉青木
 玉露
 玉栄
 玉長
 玉八商店
 玉冨士
 玉峰商店
 玉吉
 大定
 大孫商店
 保坂商店
 本玉小島
 丸高
 丸武
 宮田商店
 山長松江
 山春食品
 山勇


所在地 東京都中央区築地6-20-37(波除神社)

 昭和48年(1973)7月 父之意を承け建之

     尾邦  三浦啓雄


所在地 中央区築地5-1-1

 海軍士官の養成校だった海軍兵学寮は明治2年(1872)、築地の旧広島藩邸跡に海軍操練所として誕生しました。翌年海軍兵学寮と改め、明治9年(1879)海軍兵学校と改称し、明治21年(1888)広島県江田島に移転。昭和9年(1934)旧地を記念するため、この碑が建てられました。なお、明治4年(1874)に竣工した校舎は海鼠壁(なまこかべ)に尾根瓦を配した建築様式で人々の瞠目を集め、のち海軍大学校の校舎として使用されました。

  中央区観光協会

                             『波除獅子』 流 政之 作

所在地 中央区築地1-13-10 (Xymax本社前)

  由来
 この波除獅子は、世界有数の彫刻家、流政之先生の作であります。
 波除獅子の命名は、この地、築地の守護神であります波除稲荷神社にい由来しております。
 今から400年程前、築地一帯は、一面の海でした。慶長江戸図には、今の馬場先門あたりまで汐入を画き、八重洲海岸に舟の役所がありました。
 文禄元年(1592)江戸城西丸の増築にお堀の揚土を以て、日比谷入江を埋め始めたのが、江戸東南海面埋立の始まりです。
 その後着々と埋立の工事が進みましたが、この築地海面だけは工事困難を極めたと言われます。堤防を築いても築いても激浪にさらわれてしまうからです。
 しかし、万治年間(1660年頃)御神徳あらたかなる稲荷大神の御神体をお祀りして、波除の尊称を奉ってからは波風もぴたりとおさまり、工事はやすやすと進んだとのことです。
 この波除獅子が、波瀾含みの日本経済を鎮めてくれますよう祈願しております。


所在地 中央区築地7-19 (中央区立あかつき公園)

 私たちの住む地域は記録によれば、今から300余年前の明暦3年(1657)江戸大火の焼土をもって木挽町海岸を埋めたて約4年後の寛文初年(1662)に造築が完成されたと伝えられており以来幕末にいたる間、町の大部分は武家屋敷で周囲は築地川に囲まれた静かな環境であったといわれています。過ぎし日の歴史は、私達に幾多の史実を語り伝え、なかでも日本海軍の発祥といわれる安政年間における講武所の設立や明治の文明開化期における外人居留地の出現にわが国近代化に大きな影響を与えました。とくに明治元年(1868)に建設された築地ホテル館は当時の人々に東京の新名物として珍しがられその跡地には海軍造兵廠、海軍経理学校などが建てられ、永らく土地の人々に親しまれておりました。水清き隅田川には当時月島との交通機関として、勝鬨の渡し 月島の渡しなどが往き交う人々をのどかに運び、その後大正12年(1923)の関東大震災により町の様相は一変すると、ともに、日本橋から魚市場が隣接地に移ってくるなどで町は休息に商業の地域として栄えはじめました。昭和7年(1932)に南小田原町1、2、3、4丁目南本郷町、南田町、上柳原町の7ヶ町は小田原町1、2、3丁目と変り昭和41年(1966)にはさらに築地6、7丁目と町名が変更されました。明石町は藩洲赤穂明石の漁師が移り住んだとかあるいは瀬戸内海の明石浦の風景に似たところから名づけられたと伝えられておりますが、幕末から明治にかけて、日本近代の文教発祥の地として史実多き地であります。このようにして、私たちの住む市域は、幾多の星霜を圣て現在に至っているわけであります。ここにあかつき公園完成を記念するとともに町の歴史を構成に残すため記念碑を建設したものであります。

 昭和46年(1971)11月吉日
  築地6、7丁目 明石町 記念碑建設委員会建之


所在地 中央区築地6-20 (築地市場駐車場)

   築地ホテル館跡

 明治元年(1868)に建てられた外国人用旅館で、日本人による本格的洋風建築として新東京名物にあげられました。2階建て、アーチ式屋根やバルコニーを備え、各部屋に暖炉があり、玉突き場、食堂を設置してありました。明治5年(1872)惜しくも全焼しました。

  中央区観光協会


所在地 中央区築地1-13 (区立築地川銀座公園)

   名誉セラピードッグ認定1号犬 名犬チロリ記念碑

 捨て犬チロリは、子犬たちと共に殺生処分寸前を助けられ、後にセラビードッグ(動物介在療法)の代表犬として全国で活躍し多くの高齢者や障害者に大きく貢献しました。
 その無償の愛情を捧げる姿は人々に生きる勇気と病気回復への希望を与えました。この1頭の捨て犬の社会福祉への功績は犬史に残ると共に日本の動物愛護法に多大な影響をもたらせました。
 ありがとうチロリ.......2006.3.16永眠
 国際セラピードッグ協会 大木トオルPh.D.


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