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東京都中央区の歴史
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所在地 中央区日本橋小伝馬町3-2 (身延別院)

 (都指定有形文化財)

 この坐像はヒノキ材の寄木造りで、像高70cm、袖長76cm、胡粉地に彩色を施しています。

 頭は円頂形をし、瞳は水晶製、右手に笏、左手に経巻を持ち、法衣は朱彩、牡丹唐草模様の袈裟の上に、同じ模様の横ひ(おうひ)をかけています。胎内に、明応6年(1497年)7月、施主河島盛正との墨書銘があり、仏師山城発教定蓮が造立した、室町後期の日蓮聖人座像です。

 明治16年(1883年)、身延別院創建の際、山梨県身延山久遠寺から迎え、本尊としました。大正12年(1923年)の関東大震災にも焼失を免れ、昭和47年(1972年)4月、都指定有形文化財に指定されました。製作年代の明確な日蓮聖人の座像として貴重なものです。

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 所在地 中央区日本橋小伝馬町5-2(十思公園内)

 江戸で最初の時の鐘は、本石町3丁目(現在の本石町4丁目・室町4丁目の一部)に設置された石町の時の鐘であるといわれています。江戸市中に時刻を知らせた時の鐘は、市街地の拡大にともない、浅草・本所・上野・芝・市谷・目白・赤坂・四谷などにも設けられました。

 石町時の鐘は、鐘撞き役であった辻源七の書上によると、寛永3年(1626年)に本石町3丁目へ鐘楼堂を建てて鐘を撞いたことが記されており、鐘の音が聞こえる範囲の町からは「鐘楼銭」を集めて維持・運営が図られていました。

 本石町に設置された時の鐘は、何度か火災にあって破損したために修理や改鋳が行われました。現在の銅鐘には「寛永辛卯四月中浣 鋳物御大工 椎名伊豫藤原重休」の銘文が刻まれており、宝永8年(1711年)に鋳造されたことがわかります。

 「石町は江戸を寝せたり起こしたり」と川柳にも詠まれた石町時の鐘は、明治をむかえて廃止されましたが、昭和5年(1930年)に本石町から十思公園内に完成した鉄筋コンクリート造の鐘楼へ移設されて現在に至っています。

所在地 中央区日本橋小伝馬町5-2

 江戸の牢屋敷は慶長18年(1613年)に、常磐橋外からこの小伝馬町に移転した。代々与力格の石出帯刀が牢屋敷預りに任命されており、管理していた。そして、明治8年(1875年)5月廃止されるまで存続していたものである。

 「御府内備考」の記録によれば、その規模の広大であったことがわかる。すなわち、面積は2,618坪(8639.4㎡)あり、さらに、これの敷地の4方を堀でめぐらしていた。南西部に表門があった。獄舎は、揚座敷、揚場、大牢および女牢部屋に分かれ、明暦3年(1657年)の収容囚人は130人であり、安政の大獄(1859年)には吉田松陰ら50余名が収容されたこともある。

所在地 中央区日本橋小伝馬町5-2(十思公園)

 吉田松陰先生は天保元年(1830年)8月4日長州萩の東郊松本村で杉家の二男として生まれた。幼い頃に吉田家をついだ。成人しての名を寅次郎という。吉田家は代々山鹿流兵学師範の家であったので、早くから山鹿流兵学その他の学問を修め、その道を究めて、子弟の教育につとめた偉人である。安政元年(1854年)3月師の佐久間象山のすすめで海外渡航を計画し、下田から米艦に便乗しようとして失敗、下田の獄につながれたが伝馬町獄送りとなって途中、高輪泉岳寺の前で詠んだのが有名な次の歌である。

 かくすれば かくなるものと 知りながら 

               やむにやまれぬ 大和魂

 安政元年(1854年)9月まで約6ヶ月間伝馬町獄に留置されていたが、国元萩に謹慎の身となって帰って後の松下村塾での教育が最も偉大な事業であろう。薫陶を受けた中から有爵者6名、贈位者17名、優位者14名等多くの著名の士が出て中でも伊藤博文、山県有朋、木戸孝允等は、明治維新の大業に勲功のあった人物である。わが国歴史の上での三大変革といえば大化の改新、鎌倉幕府の創立、明治維新の三であるが、その明治維新にこれら松下村塾生の働きが大きな力となったことを深く考えたいのである。

 後松蔭は安政の大獄に連座して再び伝馬町獄に入牢となった。安政6年(1859年)7月9日江戸の長州藩邸から始めて評定所に召出されたが、その時

 まち得たる 時は今とて 武蔵野よ 

               いさましくも鳴く くつわ虫かな

と決心を歌にのべている。しかし幕府の役人を動かすことが出来ず、その後の3回の取調べで死刑を覚悟した10月22日に父、叔父、兄へ宛て永訣の書を送っているがその中にあるのが

 親思ふ 心にまさる 親ごころ 

               けふのおとづれ 何と聞くらん

の一音である。また処刑の時の近づいたのを知って10月25日より26日の黄昏までかかって書きあげたのが留魂録でその冒頭に

 身はたとひ 武さしの野辺に 朽ちぬとも 

               とどめ置かまし 大和魂

                   十月念五日 二十一回猛士

と記してある。松蔭はこれを同囚で八丈島に遠島になった沼崎吉五郎に託したが20年後当時神奈川県令で塾生であった野村靖に手渡したものが現在残っている留魂録である。それによって当時の法廷の模様、訊問應答の次第、獄中の志士の消息等がわかり、自己の心境と塾生の行くべき道を示したもので崇高な松蔭魂の指南書ともいえるものである。

 安政6年(1859年)10月27日は処刑の日であった。揚屋を出る松蔭は次の詩をを高らかに朗吟して同囚の士に訣れを告げたのである。

 「 今吾れ国の為に死す 

      死して君親に背かず 

         悠々たり天地の事 

            鑑照明神に在り 」

次いで刑場では「身はたとひ」の歌を朗誦して従容として刑についた。

 行年30歳明治22年(1889年)2月11日正四位を贈位され昭和14年(1939年)6月十思小学校々庭に留魂碑が建設された。

所在地 中央区日本橋小伝馬町5-2(十思公園内)

「杵屋」は江戸長唄三味線の家名。

「船弁慶」「連獅子」「安達ヶ原」などの名曲を残した。

 

所在地 中央区日本橋小伝馬町3-5

  東京都史蹟 昭和29年(1954年)指定

 準別格本山 江戸第五番札所

   真言宗 新高野山 大安楽寺

 

<宗旨>

宗祖弘法大師を仰ぐ 高野山真言宗に所属

<教義>

凡聖不二 即身成仏を以て立教開宗の根本教義とする。

<縁起>

 抑も此の地伝馬町は 江戸時代 徳川幕府の牢獄の所在せし所なり。当山開基山科俊海大僧正 明治初年 高野山より錫を六本木の五大山不動院に留め 化を十方に布く。時 偶々此の地伝馬町牢 処刑場跡に燐火の燃ゆるを見 大悪禁ずる能はず 幾万余の知られざる無告の霊 鬼哭悠々として 寄辺なきを弔ひ、又安政の大獄で知られざる吉田松陰等 当地で処刑された勤皇の志士の霊を慰め 又一つには 牢跡を以て浄地となし四隣の繁栄に資せん事を希念し、明治五年より勧進し、同八年一字を建立。高野山より弘法大師を勧請し本尊となす。又処刑場跡には延命地蔵菩薩を建立し 堂塔 伽藍を整備(現十思公園を含む) これを当山の濫鯣とす、爾来尊崇の信仰を聚め都心に輪喚の美を競うも 大正十二年の大震火災にかかり 昭和四年今日の規模となり 現在に及ぶ。昭和廿九年都史蹟指定

<本尊>

弘法大使 廿一日 不動明王 廿八日 蘐■供

十一面観世音菩薩 十八日 弁財天 巳の日

延命地蔵菩薩 四の日 大黒天 子の日

大日如来 一日 稲荷大明神 牛の日

■時  昭和五十一年四月吉祥   題 第四世中山弘之

 
 < 本 尊 >

弘法大師  21日

不動明王  28日

十一面観世音菩薩  18日

弁財天  己の日

延命地蔵菩薩 四の日

大黒天  子の日

大日如来  1日

稲荷大明神  午の日

 

   昭和51年(1976年)4月吉祥  第四世中山弘之

所在地 東京都中央区日本橋小伝馬町3-5 (身延別院)

 そもそも身延別院に安置する油かけ大黒天の由来を尋ぬるに、現代の名優長谷川一夫氏は京都伏見の出生にしてそこに油かけ町あり、昔油を売る商人道端の石像に間違って油をかけて以来商売が大繁昌せりと。同しげ夫人は神仏に厚く帰依し、戦後間もなく、隅々この油かけ天神が夢に出て、帝都に祀り衆人と結縁せしめよとの霊夢を蒙り早速身延別院の住職藤井日静上人(後の身延山86世法主)に相談すると、上人膝を打ちて喜ぶ。

 上人亦幼少の時、藤井家正に火災発生せんとするや大黒天神が槌を以て幼児を撃たんとす。驚いて目覚め裏に逃げて発火地点に至る。火防の大黒天として祀って来たれり 長谷川一夫同しげ夫人施主となり、油かけ天神を祀る由来なり。

 日蓮大聖人弘安二年の『大黒天神御書』に云く、大黒天神は釈迦如来の後身、上行菩薩の垂迹(衆生を救うために仮の姿をとって世に出現す)なり。然れば無量の寿福円満せざるということなし。故に大黒という。亦大暗夜叉と云ひ、或は闘戦塚間浴油神とも云う。油を以て灰身を浴して所求を成ずるが故に、凡そ崇高の宝冠を改めて卑下の烏帽子を著し、阿雲の玉体を秘して塗炭の黒身を現す。右の手には一実中道の槌を捧げ法報応の三身を知らしむ。左の手には円教の袋を執て肩にかけて万法円備の真諦を顕す。極位の宝座を下りて道祖の草鞋を履いては浴諦常住の理を知らしむ。如説而修行其福不可限、受持法華名者福不可量、所願不虚亦於現世得其福報。

     弘安2年(1279年)4月10日 日蓮 花押

 祭日 甲子の日 殊に年の始めと終りの甲子を大切にして参詣すべし。開運、安産、商売繁昌。福徳円満ならしむ

                         身延別院



所在地 中央区日本橋小伝馬町3-5 (大安楽寺)

  延命地蔵尊 ( 子育 息災 )

真言 おん かかかび さんまえい そわか

安政の大獄で名高い
吉田松陰を始めとする人々の
伝馬町牢、処刑場跡を供養するために建立された。

製作者 日展審査委員 横江嘉純 
 御縁日は24日

  大安楽寺


所在地 中央区日本橋小伝馬町3-5 (大安楽寺)

  江戸八臂弁財天 ( 学内 芸術 商売 )

江ノ島弁才天に三体あり
一、江ノ島神社  二、岩本桜  三、当弁財天なり
胎内には三体のミニ弁財天が納められ、他に十二体(大日如来、聖観音、不動明王等)
経典 金光明最勝王三巻も納められている。
   胎内は金色燦然と輝く
この弁財天、胎内の諸佛像は桧漆仕立
真言 おん そらそばていえい そわか

伝 北條政子の発願により作られる。
御縁日 巳の日
向って右 大聖歓喜天
向って左 大黒天    が祀られている。

  大安楽寺


所在地 中央区日本橋小伝馬町3-5 (大安楽寺)

 弁財天使神 ( 化石、 神居古潭、白蛇 )



北海道、石狩川神居古平潭峡の石
古来アイヌの酋長のシンボルとされ「撫で石として厄除、息災、招福の石として」信仰された。
化石の白蛇は己が弁財天の使であることから築地和田久より寄贈された。

  大安楽寺


所在地 中央区日本橋小伝馬町3-5 (大安楽寺)

  宝安稲荷大明神  ( 火防 商売繁盛 ) 

    午の日(ご縁日)

  大安楽寺


所在地 中央区日本橋小伝馬町19-4

小伝馬町3丁目の守護神である。
「竹森神社」は、江戸時代よりこの付近に竹やぶが多く、竹につながる町、竹職人の町ともいわれ、竹藪にちなんで竹森神社としたと言われている。
神体は伏見稲荷からもらいうけ、俗に「江戸七森」の一つに数えられて、江戸市中、数多い稲荷神社の仲で由緒深いものとされている。
     江戸七森
「椙森」すぎのもり     堀留
「烏森」からすもり     新橋
「初音森」はつねもり   馬喰町
「柳森」           柳原土手
「あずまの森」       向島
「笹森」ささのもり     谷中
「竹森」           小伝馬町



所在地 中央区日本橋小伝馬町9-1

 千代田神社
千代田神社は 長禄年間神霊に依り 太田特資道灌が御霊を千代田の御城に祭り鎮守とす   徳川綱吉の時 太田の旧臣長野亦四郎氏詞を奉じて小傳馬町に遷座す 是後奉仕せる社人窮困して他に社地を譲る 時に屢々異変あり 神慮なりと畏れ天明年間旧地に建立し現在に至る 大正12年(1923)9月震災にて焼失す 昭和2年(1927)區劃整理に依り 當所に替地を得て安鎮す然るに 昭和20年(1945)3月戦禍にて再度焼失す 漸次再建せしも今度諸人の力を致し浄財を受け更に新殿を造立せり 茲に遠隔を記す
 昭和33年(1958)11月吉日 小傳馬町2丁目町会


 


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