東京都中央区の歴史
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所在地 中央区佃 ~ 江東区 PR 所在地 中央区湊3-18先 (中央区民文化財) 佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲である。徳川初代将軍家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区佃町)の漁師を招いて住まわせたところという。この島と対岸の佃大橋西詰付近との間を通ったのが佃の渡しである。 明治9年(1876年)7月には、渡し銭1人5厘の掲示札の下付を願い出ている。大正15年(1926年)東京市の運営に移り、昭和2年(1927年)3月、無賃の曳船渡船となった。この石碑は、この時に建てられたものである。 昭和30年(1955年)7月に1日70往復となったが、昭和39年(1964年)8月、佃大橋の完成によって廃止された。 渡船の歴史を記念する区民史跡として、中央区民文化財に登録されている。
平成12年(2000年)3月 中央区教育委員会 所在地 中央区佃1-9-6 江戸時代の中期、正徳5年(1715年)~元文3年(1738年)に在住された上野寛永寺崇徳院宮法親王が地蔵菩薩と厚く信仰され、自ら地蔵尊像を描き江戸府内の寺院にたまわり、地蔵尊造立と促されたと伝えられています。 享保8年(1723年)寛永寺の宮様、大明院宮崇徳院宮、随宜楽院宮の三代にわたり、律院建立と熱願されたことから、寛永寺第六世輪王寺宮の推挙を得て、比叡山に安楽律院、日光山に興運律院、上野東叡山に浄名律院が建立され、その浄名律院(現在、浄名院)建立の際、山内に地蔵尊像と描かれた崇徳院宮法親王が、松をお手植えされたので、地蔵寺といわれるやにも伝えられていますが、浄名院第三十八世に地蔵比丘(びく)といわれた妙運大和尚が、八萬四千体石地蔵尊建立を発願され、崇徳院宮の描かれた地蔵尊を拝写され全国の信者に賜わったことからとも伝えられています。(八萬四千体とは、仏典に『無量壽仏 有八萬四千相十一相客 有八萬四千随形好・・・』に拠る。) 妙運大和尚が地蔵比丘といわれる所以は、嘉永3年(1850年)日光山星宮の常観寺に寓した際、地蔵尊信仰の縁ににふれられ一千体の石地蔵建立を発願され爾後、浄名院住職になられ、本格的に八萬四千体建立の大発願をなされたからといわれています。 佃天台子育地蔵尊には、天台地蔵比丘妙運の刻銘があり、まさしく拝写されたお姿と同じく左手には如意宝珠、右手には錫杖(しゃくじょう)を持たれております。またこの像を平らな自然石に刻まれていることも大変珍しいといわれています。 この地蔵尊に天台の二文字があることは妙運比丘が天台宗の僧であったから、いや天台宗の教義の一つに『一切衆生悉有仏性=人は本来的に仏である』とあることから、いつの頃かは定かではないですが、こう呼ばれ親しまれてきたのではなかろうかと考えられます。 この佃天台子育地蔵尊は、頑是ない子供衆の様々なことを、御守護下さる本願がおありになりますと同時に長壽延命・家内安全・諸願成就の地蔵尊といわれていることから古くから佃島の人々はもちろんのこと多くの人々に信仰され今日に至っております。
所在地 中央区佃1-1-14 (住吉神社)
住吉神社は江戸初期に、摂津国西都郡(大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、天保3年(1646年)に現在地に創建された佃島の鎮守です。
正面鳥居の上にある扁額は、珍しい陶製で、白地に呉須で額字や雲文を染付けています。明治15年(1882年)6月に制作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁(たかひと)親王です。 所在地 中央区佃3-11-19 ここは明治29年(1896年)に完成した新佃島埋立地の一部で、当時は房総の山々も雲霞のうちに望むことのできた閑静な景勝地でした。 ここに坪井半蔵氏が建てた下宿旅館「海水館」は、文士、詩人、画家など多くの文化人が下宿しました。 明治40年(1907年)、島崎藤村が「春」を、翌年には藤村の紹介で、小山内薫が「大川端」を執筆したのを始めとして、大正2~3年(1913~1914)頃には、佐藤惣之助、大村荘八、竹久夢二、三木露風、日夏耿之助、松崎天民、横山健堂等がここに寄宿し、文士たちの集会もしばしば行われたといいます。 この碑は昭和43年(1968年)、藤村の母校である明治学院大学の藤村研究部によって建てられたもので、裏には「春」の執筆由来の記が記されています。 所在地 中央区佃1-2-10 劇作家、北条秀司は佃島が好きであった。新派俳優、花柳章太郎も佃島が好きであった。二人はたえず連れ立って、佃島を歩き、大川の渡船を楽しんだ。 その結晶として、「佃の渡し」の芝居作りを企画した。それが昭和32年(1957年)12月の新橋演舞場に脚光を浴び、劇団新派の財産を一つ殖やし、北条秀司の代表作をまた一つ世に残すことになった。 所在地 中央区佃2-1・2 米国ペリー艦隊が来航した嘉永6年(1853年)、幕府の命を受けた水戸藩主徳川斉昭がこの地に石川島造船所を創設した。同造船所は洋式帆装軍艦「旭日丸」をはじめ、日本人によって設計、建造された最初の蒸気軍艦「千代田形」など数多の艦船を次々と建造、造船技術を通じてわが国産業の近代化に大きく貢献した。 明治維新後の明治9年(1876年)、平野富二によりわが国初の民営洋式造船所として再スタートし、その後明治22年(1889年)には渋沢栄一などの協力により会社組織となり、有限責任石川島造船所、株式会社石川島造船所の社名の下、明示から大正・昭和にかけて、多くの軍艦・商船を世に送り出してきた。この地での造船事業は昭和14年(1939年)造船部門の東京深川区豊洲への移設によって幕を閉じた。 その後、石川島重工業株式会社、石川島播磨重工業株式会社と社名が変更される中で、当地は日本屈指の重機械類の専門工場として活躍してきたが、昭和54年(1979年)の工場大移転により、その長い歴史を終えた。 以降この地はウォーターフロント開発として「リバーシティ21」と名付けられました。
所在地 中央区佃1丁目 明石町 湊3丁目
佃(つくだ)の名は、江戸開府の天正末年ごろ、大阪近郊の佃村から移り住んだ漁民たちの島、佃島に由来する。江戸の海でとれる白魚を将軍に献上し、余りを佃煮にした、ということも有名である。住吉神社もまた、大阪南部の住吉の大神を勧請(かんじょう)したものである。
所在地 中央区佃1-1-14
住吉神社
所在地 中央区佃1-1-14 (住吉神社)
中央区民文化財
住吉神社は江戸初期に、摂津国西都郡(大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、天保3年(1646年)に現在地に創建された佃島の鎮守です。
所在地 中央区佃1-1-14 (住吉神社)
水谷緑亭(1787~1858)は、南茅場町(現在の日本橋茅場町1丁目)に生まれ、本名を金蔵といいました。幼い時に父を亡くし、佃島の漁師太平次に養われ、佃島の名手をつとめたと伝えられています。また、養父母に孝養を尽くし、佃島の風俗を矯正した功績などにより、町奉行所から三度にわたり褒章を受けました。
所在地 中央区佃1丁目 住吉水門は、佃堀(佃川支流)が隅田川に合流する地点にあり、1965年に完成しました。通常時は、船舶が通航するために開放していますが、高潮あるいは津波時には、周りの月島水門、浜離宮水門などとともに閉鎖され、佃、月島等の防潮堤で囲まれた地域の住民の生命・財産を守ります。 住吉水門、月島川水門は建設局が、浜前水門、朝潮水門、佃水門は港湾局が管理しています。 所在地 東京都中央区佃2 1986年に着工、2000年に完成した超高層住宅で、石川島播磨重工業㈱の工場跡地を中心に、隅田川沿いの堤防・遊歩道、公園・緑地、学校、住宅を含めて再開発されたものです。隣接する下町情緒のまち並みと見事なコントラストを見せてくれます。 数多くのテレビドラマにおいて、新川からリバーシティ21をバックに撮影されています。 佃堀の河岸地にある波除稲荷神社(於咲稲荷神社)の鳥居脇に、三個の力石が置かれています。長径51cm前後の楕円形の石で、どれにも「さし石」の刻銘があり、材質は安山岩です。佃島では漁業に従事する若い衆などが、力競べとして石を持ち上げることが盛んに行われました。石の一つは「佃大市」「佃辰」「佃清」「吉松」など力持ちの名も刻まれています。 中央区教育委員会 所在地 中央区佃2-17-15 (月島機械株式会社) 黒板伝作胸像 本胸像は先生の知己縁故者により昭和11年(1936)此所に建設された銅像が不幸大東亜戦争の犠牲となり台石を残すのみとなったので昭和卅年(昭和30年)会社創立50周年を期し胸像として再建しました 前社長 黒い多伝作氏 銅像再建委員会有志 |
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