東京都中央区の歴史
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所在地 中央区明石町10 (聖路加国際病院) PR 小原鐵五郎氏は明治32年(1899年)11月1日、東京荏原郡大崎町に生れる。大正10年(1921年)城南信用金庫の前身である大崎信用組合に奉職。爾来、一業専念を信条として”信用金庫一筋”に歩む。永代に亘り全国信用金庫協会及び全国信用金庫連合会の会長として業界の発展に尽瘁、昭和62年(1987年)春の叙勲に於て、我が国の庶民金融並びに広く産業経済の発展に尽くした功績により、勲一等を親授せらる。 ここに同氏の栄誉を祝して、全国455信用金庫が相集い永久にその功績を顕彰し敬慕の念を後世に伝えんとして、この寿像を建立す。 昭和62年(1987年)11月1日 全国信用金庫一同 所在地 東京都中央区京橋2-2-10
所在地 中央区日本橋浜町2・3 ~ 江東区
所在地 中央区佃1丁目 明石町 湊3丁目
佃(つくだ)の名は、江戸開府の天正末年ごろ、大阪近郊の佃村から移り住んだ漁民たちの島、佃島に由来する。江戸の海でとれる白魚を将軍に献上し、余りを佃煮にした、ということも有名である。住吉神社もまた、大阪南部の住吉の大神を勧請(かんじょう)したものである。 所在地 中央区新川2丁目 湊1丁目 亀島川は、日本橋川から分かれ、隅田川へ合流する全長1kmほどの川です。この川の上流端には日本橋水門(1971年完成)が、下流端には亀島川水門(1968年完成)があります。高潮あるいは津波時には、両水門を閉鎖して亀島川流域住民の生命・財産を守ります。
所在地 中央区佃1-1-14
住吉神社
所在地 中央区佃1-1-14 (住吉神社)
中央区民文化財
住吉神社は江戸初期に、摂津国西都郡(大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、天保3年(1646年)に現在地に創建された佃島の鎮守です。
所在地 中央区佃1-1-14 (住吉神社)
水谷緑亭(1787~1858)は、南茅場町(現在の日本橋茅場町1丁目)に生まれ、本名を金蔵といいました。幼い時に父を亡くし、佃島の漁師太平次に養われ、佃島の名手をつとめたと伝えられています。また、養父母に孝養を尽くし、佃島の風俗を矯正した功績などにより、町奉行所から三度にわたり褒章を受けました。 所在地 中央区月島3-4-11 月島観音堂の地は、今から50年の昔、この地の篤志家柴崎家(仙台輔氏)のご芳志により寄進を受けたものである。 ご本尊は、当地の長谷川高次郎氏秘蔵の観世音菩薩を信州善光寺大本願に於いて入魂した上で、一光三尊如来と共に下附されこれを本堂に安置し、本誓殿の称号を授与され、爾来講中の世話人心をこめて守護し今日に至っているものである。 この堂に参詣するもの、いつの間にか運が開けあらゆる念願が成就すると言われ、その中でも、失せものが見つかり、病気の平癒には極めて霊顕あらかたなるものありとの話が伝わり月島開運観世音の名は一層高まっている。 【 灯篭流し供養 】 7月17日
所在地 東京都中央区日本橋浜町2-57先 新大橋西詰 所在地 中央区新川2 八丁堀3・4 所在地 東京都中央区築地7-10-8
所在 東京都中央区銀座4-12 所在地 中央区佃1丁目 住吉水門は、佃堀(佃川支流)が隅田川に合流する地点にあり、1965年に完成しました。通常時は、船舶が通航するために開放していますが、高潮あるいは津波時には、周りの月島水門、浜離宮水門などとともに閉鎖され、佃、月島等の防潮堤で囲まれた地域の住民の生命・財産を守ります。 住吉水門、月島川水門は建設局が、浜前水門、朝潮水門、佃水門は港湾局が管理しています。
(中央区民有形文化財) 大正4年(1915年)3月、本郷座で泉鏡花原作「日本橋」初演のおり、当時21歳の無名であった新派の俳優、花柳章太郎は、お千世の役を熱望し、劇と縁の深い西河岸地蔵堂{昭和24年(1949年)、日本橋西河岸地蔵寺協会となる}に祈願をしました。「日本橋」は檜物町(現、日本橋3丁目、八重洲1丁目)の花街を舞台とした、いわゆる日本橋芸者の物語で、お千世は登場する芸妓のひとりでした。章太郎は、この劇でお千世役に起用されて好演し、これが出世役となりました。 ここに所蔵される「お千世の図額」は、二度目のお千世役である昭和13年(1938年)の明治座上演の際に、章太郎が奉納したものです。この絵を描いた小村雪岱は、「日本橋」の本の装丁や挿絵も担当した日本画家で、図額には章太郎と鏡花の句も添えられています。この「お千世の図額」は、地域にもゆかりの深いものとして、中央区民有形文化財に登録されています。
所在地 中央区新川1-8-17 新川大神宮の由来は、伊勢内宮の社僧慶光院所蔵古文書『慶光院由緒』並に江戸名所図絵に詳しい。 当宮は慶光院周清上人が寛永2年(1625年) 徳川二代将軍から江戸代官町に屋敷を賜り、邸内に伊勢両宮の遙拝所を設けられたのに始まり、其後明暦3年(1657年)江戸の大火で類焼したので、この年替地を霊岸島に賜り社殿を造営、以来実に三百年を経た。 爾来当地は河村瑞賢が隅田川に通ずる水路を開いて舟揖の便に利するに至って新川と称し、当宮を中心として酒問屋櫛比し殷賑を極め今日に至るまで酒類の一大市場となった。 当宮は夙に当地産土神として庶民の崇敬を聚め、特に酒問屋の信仰篤く、毎年新酒が着くとこれが初穂を神前に献じ、然る後初めて販売に供した。 明治維新により幕府の庇護が絶えてからは専ら酒問屋の守護神として崇敬厚く奉齋し来ったが、昭和20年(1945年)3月9日の戦災にに罹り社殿を烏有に帰した。 その後、新川も戦災焦土で埋め旧態を失ったが、再び往時の繁栄を恢復しつつあるのは全く当宮御神威の賜ものである。 隅々昭和27年(1952年)が講和条約発効独立恢復の年に当る故を以って、酒問屋有志は深く当宮の御神徳を景仰し感激措く能わず、即ち社殿の再建を発起し、洽く協賛を全国同業者に求めて同年5月7日地鎮祭、9月5日上棟祭、10月17日竣工遷宮並に例大祭を執行、聊か神慮に応え奉り、敬神崇祖の微衷を捧げた次第である。 茲に当宮再建の由来を記し、同業協賛の美挙を載せて後世に伝えるものである。 昭和27年(1952年)10月17日 所在地 東京都中央区佃2 1986年に着工、2000年に完成した超高層住宅で、石川島播磨重工業㈱の工場跡地を中心に、隅田川沿いの堤防・遊歩道、公園・緑地、学校、住宅を含めて再開発されたものです。隣接する下町情緒のまち並みと見事なコントラストを見せてくれます。 数多くのテレビドラマにおいて、新川からリバーシティ21をバックに撮影されています。
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永山
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