東京都中央区の歴史
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所在地 中央区明石町10 (聖路加国際病院) PR 亀島橋は元禄12年(1699年)の町触(まちぶれ)に橋普請の記載がありこのころ架橋されたと考えられる。 大正12年(1923年)関東大震災で被害を受け、内務省復興局により昭和4年(1929年)に鋼上路アーチ橋として復興されたが、戦時中の物資不足を補うため高欄等が供出された。 「亀島」の名称は、昔、瓶を売る者が多くいたからとの説と、かつて亀に似た小島があったからとの説がある。 今回の架け替えに当たり、当時のデザインを生かしつつ、地域のシンボルとして21世紀に誇れる橋とした。 江戸時代の八丁堀には町奉行配下の与力・同心の組屋敷が置かれ、新川は酒問屋を中心とした問屋の町として栄え、亀島川には全国からの物資を運ぶ船が往来し、繁栄していた。 現在、亀島橋は東京駅と大川端リバーシティ方面を結ぶ重要な橋であり、亀島川は江戸時代のなごりをとどめる貴重な川のひとつとなっている。 所在地 東京都中央区明石町10 ジュリア・カロゾルスが1870年、築地居留地6番にA六番女学校を創設、米国長老会に所属した。
所在地 東京都中央区明石町10・11地域
常陸笠間(茨城県笠間市)藩主浅野長直(1610~1672)は、正保2年(1645年)、播磨赤穂(兵庫県赤穂市)に領地替えとなり、53,500石を領して内匠頭と称しました。子の長友の代に分与して5万石となります。 弾正橋は古く江戸寛永年間には既に、楓川上にかかっているのが記されており、北八丁堀に島田弾正少弼屋敷があったのがその名の由来のようである。弾正橋は当時交差した堀川上に真福寺橋、白魚橋と共に三つの橋がコの字状に架けられていたことから、江戸名所図会に「三ツ橋」として紹介されており、江戸における一つの名物であったようである。 その後たびたび架替えられたが、明治11年(1878年)に工部省の手により、我が国最初の国産の鉄を使った橋として架替えられた。その時の橋は現在でも江東区富岡1丁目に保存され、昭和52年(1977年)に国の重要文化財として指定され、平成元年(1989年)にはアメリカ土木学会の栄誉賞も受ける等その歴史的貴重さを増している。 現在の橋は大正15年(1926年)12月に復興局によって架替えられたもので、従来の弾正橋よりやや北側に位置している。その後昭和39年(1964年)の東京オリンピックの時に、弾正橋の西側に公園が造成され、平成5年(1993年)2月に公園と一体化された。くつろぎのある橋として再整備された。尚、公園にあるモニュメントは、明治11年(1878年)、楓川に架かる弾正橋を象徴化して復元したものである。 所在地 東京都中央区明石町9 江戸幕府は安政5年(1858年)に欧米五カ国と修好通商条約を結び、横浜・神戸など五港の開港と江戸・大阪の開市を取り決めました。居留地は開港・開市の土地に設けられた条約締結国の外国人の居住や通商のための専用特別区でした。 江戸(東京)の開市は明治元年(1868年)、明治政府になってからで、この条約に基づいて現在の明石町地域を築地居留地と定めました。 築地居留地は商館の多かった横浜や神戸などは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し教会や学校などを数多く開いて教育を行っていました。このため、築地居留地は日本の近代化に大きな影響を与えた一地域を形成していました。 明治に描かれた築地居留地の銅版画からは、洋風建築が建ち並び異国情緒あふれる街の様子をうかがうことができます。 所在地 東京都中央区湊3-18 (中央区民文化財) 佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲でした。江戸幕府初代将軍徳川家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区)の漁民を招いて住まわせたところと伝承されています。この島と対岸の船松町(佃大橋西詰付近)との間に生保2年(1645年)に通ったのが佃の渡しです。 明治9年(1876年)には、渡し銭一人5厘の掲示札の下付を願い出て許可され、大正15年(1926年)東京市の運営に移り、翌昭和2年(1927年)3月に無償の曳船渡船となりました。「佃島渡船」の石碑は、手こぎ渡船を廃止した記念として、この時期に建てられたものです。 昭和30年(1955年)7月には1日70往復にもなりましたが、昭和39年(1964年)8月の佃大橋の完成によって300年の歴史を持つ佃島渡船は廃止されました。 渡船の歴史を記念する史跡として、中央区民文化財に登録されています。
所在地 東京都中央区新川2-20 徳川期この地新川は、越前松平家の下屋敷が三方掘割に囲われ、広大に構えていた(旧町名越前堀はこれに由来する)。その中に小さな稲荷が祀られていたと言う。御神体は徳川家の遊船の舳を切って彫られたものと伝えられる。 明暦3年(1657年)、世に云う振袖火事はこの地にも及んだが御神体はあわや類焼の寸前何を免れ、大正11年(1922年)に至るまで土地の恵比須稲荷に安置された。関東大震災では再度救出され、昭和6年(1931年)隅田川畔(現中央大橋北詰辺り)に社を復活し町の守護神として鎮座したが、戦災で全焼。昭和29年(1954年)同処に再現のあと平成3年(1991年)中央大橋架橋工事のおため、この地に遷座となる。 列祭は11月15日である。 所在地 中央区新川2-20・31 中央区湊1-8・14 (亀島川) (区民有形文化財) 創架年代は、昭和6年(1931年)に起工、同年七月に竣工。 現在の南高橋の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみでした。大正12年(1923年)の関東大震災ののち、街路の大規模な区画整理が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀1丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。 東京市は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治37年(1904年)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのです。 都内において、珍しくも明治37年(1904年)のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)についで2番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で6番目に古い橋梁になります。 区民有形文化財に登録されています。
所在地 東京都中央区明石町10
所在地 中央区日本橋室町1-4-1 (三越本店) 所在地 中央区銀座1-2 (中央区民文化財) 京橋は、江戸時代から日本橋とともに有名な橋でした。橋は、昭和34年(1959年)、京橋川の埋め立てによって撤去され、現在では見られませんが、その名残をとどめるものとして、三本の親柱が残っています。 橋北詰東側と南詰西側に残る2本の親柱は、明治8年(1875)当時の石造の橋のものです。江戸時代の橋の伝統を引き継ぐ擬宝珠(ぎばし)の形で、詩人佐々木支陰の筆によって、「京橋」「きやうはし」とそれぞれ橋の名が彫られています。 一方、橋南詰東側に残る親柱は、大正11年(1922年)にかけられた橋のものです。石及びコンクリート造で、照明設備を備えたものです。 京橋の親柱は、明治、大正と二つの時代のものが残ることから、近代の橋のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。 所在地 中央区銀座1-11-2 明治3年(1872年)2月26日、銀座は全焼し、延焼築地方面に及び焼失戸数4,000戸と称せられる。 東京府知事、由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企割建策し、政府は國費を以って煉瓦造2階建アーケード式洋風建築を完成す。 煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり。 ここは、明治4年(1871年)3月1日(4月20日)日本の近代的郵便制度は、前島密の創意により、東京~大阪間で始まり、この地に駅逓司(現在の日本郵政公社)と東京の郵便役所(四日市郵便役所とも呼ばれ、現在の東京中央郵便局)が置かれたところです。 (都指定有形文化財) この坐像はヒノキ材の寄木造りで、像高70cm、袖長76cm、胡粉地に彩色を施しています。 頭は円頂形をし、瞳は水晶製、右手に笏、左手に経巻を持ち、法衣は朱彩、牡丹唐草模様の袈裟の上に、同じ模様の横ひ(おうひ)をかけています。胎内に、明応6年(1497年)7月、施主河島盛正との墨書銘があり、仏師山城発教定蓮が造立した、室町後期の日蓮聖人座像です。 明治16年(1883年)、身延別院創建の際、山梨県身延山久遠寺から迎え、本尊としました。大正12年(1923年)の関東大震災にも焼失を免れ、昭和47年(1972年)4月、都指定有形文化財に指定されました。製作年代の明確な日蓮聖人の座像として貴重なものです。 所在地 中央区日本橋1-4 (東京都指定旧跡) 江戸時代のはじめ、下町一帯の井戸は塩分を含み飲料に適する良水が得られず付近の住民は苦しんでいました。 正徳元年(1711年)、白木屋2代目当主の大村彦太郎安全は私財を投じて井戸掘りに着手しました。翌二年、たまたま井戸の中から1体の観音像が出たのを機に、こんこんと清水がわ湧き出したと伝えられています。以来、付近の住民ならず諸大名の用水ともなって広く「白木名水」とうたわれてきました。 白木名水は湧出してから数100年の時を経て消失しましたが、江戸城下の歴史を理解する上で重要な遺跡です。この「名水白木屋の井戸」の石碑は江戸時代の呉服商を継いだ白木屋デパート、東急百貨店と続く長い歴史の後に、日本橋1丁目交差点角にあったものを平成16年(2004年)ここに移設再現したものです。
所在地 中央区日本橋本町2-8 所在地 東京都中央区日本橋本町2-6先 徳川家康による江戸城築城のおり、寶田村が城の拡張により移転のやむなきに至った。譜代の家臣である馬込勘解由が寶田村の鎮守の御本尊を奉安して住民と共に現在地に移転した。 この大業を成し遂げた功により、勘解由は江戸の筆頭名主となり年間役料は、210両の最高であった。後に三伝馬取締役に出世し、徳川家繁栄を祈願された恵比壽神を授けられ、寶田神社に安置して江戸の平穏を祈願した。 御神体は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられ、以来商業の守り神として10月20日の恵比壽講の前夜に市が開かれるようになった。 恵比壽講に使う鯛や神棚などと共に江戸名物の浅漬大根が売られ、売り子が大根に付いた糀を若い女性の着物に近づけ「ほら。べったら、べったら、買わないで通ると着物にくっ付くよ。」と戯れたことからべったら市の名がついた。 徳川家康公江戸出府401年を壽き、ここに馬込勘解由の功績を讃え碑を建立するものである。 江戸で最初の時の鐘は、本石町3丁目(現在の本石町4丁目・室町4丁目の一部)に設置された石町の時の鐘であるといわれています。江戸市中に時刻を知らせた時の鐘は、市街地の拡大にともない、浅草・本所・上野・芝・市谷・目白・赤坂・四谷などにも設けられました。 石町時の鐘は、鐘撞き役であった辻源七の書上によると、寛永3年(1626年)に本石町3丁目へ鐘楼堂を建てて鐘を撞いたことが記されており、鐘の音が聞こえる範囲の町からは「鐘楼銭」を集めて維持・運営が図られていました。 本石町に設置された時の鐘は、何度か火災にあって破損したために修理や改鋳が行われました。現在の銅鐘には「寛永辛卯四月中浣 鋳物御大工 椎名伊豫藤原重休」の銘文が刻まれており、宝永8年(1711年)に鋳造されたことがわかります。 「石町は江戸を寝せたり起こしたり」と川柳にも詠まれた石町時の鐘は、明治をむかえて廃止されましたが、昭和5年(1930年)に本石町から十思公園内に完成した鉄筋コンクリート造の鐘楼へ移設されて現在に至っています。 所在地 中央区日本橋小伝馬町5-2 江戸の牢屋敷は慶長18年(1613年)に、常磐橋外からこの小伝馬町に移転した。代々与力格の石出帯刀が牢屋敷預りに任命されており、管理していた。そして、明治8年(1875年)5月廃止されるまで存続していたものである。 「御府内備考」の記録によれば、その規模の広大であったことがわかる。すなわち、面積は2,618坪(8639.4㎡)あり、さらに、これの敷地の4方を堀でめぐらしていた。南西部に表門があった。獄舎は、揚座敷、揚場、大牢および女牢部屋に分かれ、明暦3年(1657年)の収容囚人は130人であり、安政の大獄(1859年)には吉田松陰ら50余名が収容されたこともある。 |
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