東京都中央区の歴史
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所在地 中央区日本橋本町2-8 PR 所在地 東京都中央区日本橋本町2-6先 徳川家康による江戸城築城のおり、寶田村が城の拡張により移転のやむなきに至った。譜代の家臣である馬込勘解由が寶田村の鎮守の御本尊を奉安して住民と共に現在地に移転した。 この大業を成し遂げた功により、勘解由は江戸の筆頭名主となり年間役料は、210両の最高であった。後に三伝馬取締役に出世し、徳川家繁栄を祈願された恵比壽神を授けられ、寶田神社に安置して江戸の平穏を祈願した。 御神体は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられ、以来商業の守り神として10月20日の恵比壽講の前夜に市が開かれるようになった。 恵比壽講に使う鯛や神棚などと共に江戸名物の浅漬大根が売られ、売り子が大根に付いた糀を若い女性の着物に近づけ「ほら。べったら、べったら、買わないで通ると着物にくっ付くよ。」と戯れたことからべったら市の名がついた。 徳川家康公江戸出府401年を壽き、ここに馬込勘解由の功績を讃え碑を建立するものである。 所在地 東京都中央区日本橋本町2-6 伊勢商人、小津清左衛門長弘は、当時江戸随一の商業地であった大伝馬町(現在地)に、承応2年(1653年)創業しました。 以来、幾多の事業の返還を経て「紙商小津」として現在に至って居ります。 <小津和紙紙博物館> 入館料 無料 資料館・ギャラリー 10:00~18:00 文化教室 10:00~20:00
所在地 中央区日本橋本町3-6-2 於竹大日如来は、寛永17年(18歳の時)山形県庄内より出て、当時の江戸大伝馬町馬込家の召使いとなる。その行いは何事にも誠実親切で、一粒の米、一切れの野菜も決して粗末にせず貧困者施した。そのため於竹さんのいる勝手元からはいつも後光がさしていたという。出羽の国の行春乗蓮と玄良坊が馬込家をおとづれ 「於竹さんは羽黒山のおつげによると大日如来の化身である。」 とつげた。主人は驚き勝手仕事をやめさせ、持仏堂を造り、その後念仏三昧の道に入る。これが江戸市中に拡がり、於竹さんを拝もうと来る人数知れずと言う。 於竹さんの詠んだ歌に 『 手と足は いそがしけれど 南無阿弥陀仏 口と心の ひまにまかせて』 延宝8年(1680年)5月この世を去る 行年58
五代将軍綱吉公の母堂桂昌院の歌に 『 ありがたや 光と共に 行く末は 花のうてなに 於竹大日 』
於竹さんが愛用し貧困者が市をなしたと言う有名な於竹井戸はこの地にあった。 昭和46年(1971年)5月吉祥 於竹大日如来保存会 所在地 東京都中央区日本橋本町1-8 当社は室町中期長禄元年(1457年)に太田道灌が江戸城を築城の際、京都伏見稲荷大神の御分霊をいただき、常盤稲荷と名づけ、同城お守護神として勧請された。後に、徳川家康公開府により、江戸城廓拡張工事が行われ現在の常盤橋(もともと大橋と称されていたが、当社がこの地に移ってより社名をもって常盤橋に改称された)辺りに社地が移された。 宝暦(1751~)の頃まで、社殿に掲げられていた太田道灌の額面に 名に高き 蘆のなぎさの 葭原に 鎮めまします 常盤の神 の歌が記されていたと伝えられる。 その後更に、長浜町の日本橋魚市場内に移り、市場の守護神水神大神(罔象女神)を相殿に祀り鎮座された。 当時は、大市場交易神と称され盛大な水神祭が行われ、神田祭・三大王祭と共に、大江戸の名物行事でもあった。 この水神大神は、明治34年(1901年)に神田神社境内に遷され水神社と改称し、築地市場の守護神として祀られ今日に至っている。 合祀されている末社産千代稲荷神社のご祭神は倉稲魂命・三穂津比売命二柱の大神が祀られている。古来より安産の守護神として厚い信仰があり参詣者が極めて多かったと伝えられる。そのお礼参りに桜の若木が奉納される習わしがあり、当時は魚市場中桜花爛漫の景観であったといわれている。 <ご祭神> 倉稲魂命(くらいなたまのみこと)(稲荷大神) (相殿) 罔象女神(みずはのめのかみ) 所在地 東京都中央区日本橋本町4-4-13 両社稲荷神社奉賛会 芳名者 長谷川正三 永井くに 湧井恭行 猪股亀三郎 海老原洋二 奥田宣男 荻野正徳 加藤守夫 木田宣男 佐々木隆綱 中島嘉彦 石川雅敏 佐々木勇三雄 菊池康之 関口六郎 森嵜功一 秋山和義 今津雅善 内山運平 小林是郎 中山純一 松下平雄 森口博 久保木登志雄 平成5年(1993年)12月吉日 落慶 |
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