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東京都中央区の歴史
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所在地 東京都中央区勝どき4-12-9(東陽院)

 (中央区民文化財)

 十返舎一九は本姓を重田といい、明和2年(1765年)駿河(静岡市)に生まれた。その後、江戸に出て、日本橋の出版業者、蔦屋重三郎付の作家となり、多くの黄表紙・洒落本を書いた。なかでも「東海道中膝栗毛」はよく知られ、主人公の栃面屋弥次郎兵衛と喜多八が日本橋から東海道を旅し、伊勢参宮の後、京都へたどりつくという旅行記の形式をとる物語であり、続編に続編を重ね、十返舎一九の代表作となった。

 天保2年(1832年)に没し、浅草永住町の東陽院に葬られた。関東大震災後、当地に移転し、墓も移された。

 墓石には次の辞世が刻んである。

此世をば  どりやお暇に  線香の  煙と共に  はい左様なら

 墓は、区の歴史や文化に関わりのの深いものとして、中央区民文化財に登録されている。
 

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所在地 中央区築地6丁目~中央区勝どき1丁目

勝鬨橋かちどきばし(勝どき橋)

 勝鬨橋は、昭和15年(1940年)に隅田川河口部に築造された、わが国で最大規模を誇る可動橋です。橋の中央部分を「ハ」の字型に開いて、1,000t級の大型船舶を通すことができました。

 勝鬨の名は、明治38年(1905年)の日露戦争の勝利を記念して、築地と月島間に新たに設けられた渡し場である「かちどきの渡し」に由来している。
 月島と築地の連絡は、佃の渡し月島の渡し勝鬨の渡しの三つの渡しに頼っていました。勝鬨橋は、こうした月島の交通不便を解消し、当時、埋立が進んでいた晴海や豊洲地区の開発支援のため建設されました。
 隅田川河口部は、江戸から明治、大正、昭和初頭頃まで港の働きのある水域でした。河岸には、倉庫や工場が立地しマストなど背の高い貨物船が航行していました。また、造船所などもあり大型船も航行していました。このため、通常は人や車を渡し、1日数回開橋して大きな船を通すことのできる可動橋にしたのです。
 戦前は、1日5回開閉していました。戦後の昭和22年(1947年)からは1日3回、昭和36年(1961年)からは1日1回です。可動部は70°まで70秒で開きました。船が通る間、晴海通りは約20分間通行止めになりました。
 生活物資などを運搬する交通手段は、昭和30年(1955年)に入ると船や鉄道から自動車に転換してゆきます。このため、隅田川を航行する船が減少し、また勝鬨橋が渡している晴海通りの交通混雑が激しくなり、昭和45年(1970年)11月29日を最後に中止しています。

<橋長>246m

<有効幅員>22m

<構造型式>

可動部 シカゴ型固定軸双葉跳開橋

固定部 ソリッドリブタイドアーチ橋

橋台部 半重力式RC造り

橋脚部 半重力SRC造り

<工事期間> 昭和8年(1933年)6月10日~昭和15年()1940年6月14日

<工事費> 418万円



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永山
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