東京都中央区の歴史
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所在地 中央区京橋1-9
安藤広重住居跡(歌川広重住居跡・安藤鉄蔵住居跡) 所在地 中央区京橋3-4先 寛永元年2月15日、元祖猿若中村勘三郎、中橋南地と言えるこの地に猿若中村座の芝居櫓を上ぐ。 これ江戸歌舞伎の濫觴也。茲に史跡を按じ斯石を鎮め國劇歌舞伎発祥の地として永く記念す。 昭和32年(1957年)7月建立 江戸歌舞伎旧史保存会 小原鐵五郎氏は明治32年(1899年)11月1日、東京荏原郡大崎町に生れる。大正10年(1921年)城南信用金庫の前身である大崎信用組合に奉職。爾来、一業専念を信条として”信用金庫一筋”に歩む。永代に亘り全国信用金庫協会及び全国信用金庫連合会の会長として業界の発展に尽瘁、昭和62年(1987年)春の叙勲に於て、我が国の庶民金融並びに広く産業経済の発展に尽くした功績により、勲一等を親授せらる。 ここに同氏の栄誉を祝して、全国455信用金庫が相集い永久にその功績を顕彰し敬慕の念を後世に伝えんとして、この寿像を建立す。 昭和62年(1987年)11月1日 全国信用金庫一同 所在地 東京都中央区京橋2-2-10 所在地 中央区京橋1-1-1 尾台榕堂之碑 尾台榕堂(1799~1870)は幕末に活躍した寛保の名医。越後魚沼郡中条村(現在新潟県十日町市中中条)の医師小杉家に出生。名は元逸、字は士超、通称は良作、号は榕堂また敲雲。16歳で江戸に出、尾台浅岳に医学を、亀田綾瀬に儒学を学ぶ。36歳で師浅岳の家を継いで尾台姓を称し、65歳のとき将軍徳川家茂に単独拝謁。この地(北槇町)に居住して医療活動を行い、当代屈指の名医として世に謳われた。著書は類聚方広義・方伎雑誌ほか多数あり、現代医療の一班を担う日本漢方医学の基盤を築いた。 撰文 小曽戸 洋 建立 平成23年(2011)10月19日 (社)日本東洋医学会 (財)日本寛保医学研究所 東亜医学協会 (社)日本医史学会 温知会 東京十日町会 十日町市 制作 藤巻秀正 |
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